短歌日記63

 

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 雲澱む雨の予感のなかにさえ慄いてゐる三輪車たち


 さよならといえば口まで苦くなる彼方のひとの呼び声はなし


 カリンバを弾く指もて愛撫するわが身のうちのきみの左手


 ゆうづきの充ちる水桶ゆれながらわれを誘う午後の失意よ


 手鏡を失う真夏・地下鉄の3番出口写したまんま


 夏帽よさらばひとりが立ちあがるうすくれないの片隅のなか


 黄泉あらばぼくのなまえを送りたいいまさらにただすべてを忘れ


 陽のごとくぼくを苛むきみならば愛してやろう憎んでやろう


 血と砂の交わりばかり戦場が頭蓋蝕む真昼の余韻


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〇歌論のためのノート

 抵抗文化としての短歌(1)/清原悠の「抵抗の文化を育む教育はいかに可能か?」に≪スベトラーナ・アレクシエービッチが「全体主義」と対置する形で「抵抗の文化」を述べたこと、そして「人々の団結」にこそ「抵抗という文化」を見いだした点には通底した問題意識が見られるからである。≫とあるのを見つけた。そもそもこの歌論にある「抵抗文化」とは寺山の言葉を引いたものであって、一般に存在し、ひろく認知された語ではない。抵抗文化で検索しても、対抗文化=カウンターカルチャーか、「抵抗の文化」しかないのである。わたしの解釈としては大衆短歌群に於ける過度な口語化、そして共感への信仰、なおかつSNS映えを狙いすぎた流行歌への抵抗としての短歌が必要だということで、そこにひとびとの団結というのはあまり考えてはいなかった。しかしひとつの文化を形成するからには団結は不可欠だ。たったひとりでドン・キホーテになるわけにもいくまい。おなじ意識を共有するひとびとともに歌を詠むしかないのである。抵抗文化は即ちアンダーグラウンドだ。風流罪科な短歌群をつきぬけるための力がわれわれに求められている。