6月は列車の月だったような気がする。
実際にどこか遠くへ旅をしたわけじゃない。
待つことは、おれにとっていちばん苦手な行為だ。
「CQB」を何度も録音した。弾き直し、聴き返し、また録る。
その代わりに文学は遠ざかった。小説は読めない。詩も書けない。
月末には同級生への手紙を書いた。毎年冬に送る、
来月、おれは42歳になる。人生は長距離列車ではなくなった。
雨の6月だった。湿気でギターは狂い、睡眠は浅く、左足は痛み、
音楽の近情
6月はずっと足が痛かった。痛みというものは不思議なもので、
それでもギターには触っていた。いま主にやっているのは「
以前の「CQB」はコードが多すぎた。
先日はアコギでリハーサルを録音した。
だが、問題ばかりでもない。
おれの理想は、Yo La Tengoの演奏を背景に、
足はまだ痛む。金曜日にはまた病院だ。
映画『地獄の黙示録』寸評
戦争映画というのは奇妙なジャンルである。
この映画を観ていておもうのは、
最近、「悪の遠近法」ということを考えている。
しかし、この映画にも不満はある。映像は圧倒的だ。
とはいえ、この作品を否定することはできない。なぜなら『
映画が終わったあと、
高橋恭司『THE MAD BROOM OF LIFE』への寸評
高橋恭司の写真を観ていると、
高橋恭司はかつて「僕は正義も善も悪も、ゆうれいもキライだ。」
それは一見すると冷淡で無責任に見える。
だから写真の中の人物たちは英雄にもならないし、
食通は荒野を走る──映画『タンポポ』の原風景
ひさしぶりに『タンポポ』を観た。伊丹十三監督作品。いまでは「
伊丹十三はエッセイのなかで、昭和ひと桁世代にとって《
『タンポポ』に登場する人間たちはみな食べ物に憑かれている。
わたしは昔から食通という人種が苦手だった。
作中の東京は異様に広い。人間同士は出会うが、
ラーメン屋には客が集まる。しかし食べ終えれば帰ってしまう。
歳を取るにつれ、『タンポポ』
そういう態度はどこか筒井康隆にも似ているし、
映画のラスト近くで、赤ん坊が乳を飲む場面が挿入される。
『タンポポ』はラーメン礼讃の映画ではない。
映画『マルサの女』を読む
原作のテレビマンとしての伊丹十三を意識したのは、
伊丹監督はエンタメに徹したというが、
のちに名作と持ち上げられてから観たが、
悪役・権藤の山崎努はよかった。あの足の不自由な男がみせる、
個人的に残念だったのは、やはり脱税という行為の根底にある「
『配管工の死──ディキンス・ハーにおける即物主義と虚無のパッケージング』
ディキンス・ハーという男のテキストを読んでいると、
一九五九年の『クライム・パルプ・マンスリー』
一、 剃刀の刃と、宙吊りの暴力
デビュー短篇『日曜日の剃刀』を覗いてみれば、
ここで重要なのは、
> 「ナイフを持たせりゃ、誰だって王様になれる」
ハーはそう嘯くが、劇的な殺人は結局起きない。
こちとら生活がかかっている表現者だ。いつでも引き金を引ける、
二、 プラスチックの救世主と大量生産の虚無
晩年の遺稿とされる『プラスチックのキリスト』に至ると、
ネバダの寂れたモーテルで、
大量生産された信仰、そして無料同然に消費される救済。
ハーの主人公は、その安っぽい救世主をライターで炙り、
ハーは知っていたのだ。身銭を切らない安価な共感など、
三、 表現のパッケージ化に向けて
ディキンス・ハーの歩き方は、私に一つの確信を与える。
文学も、詩も、短歌も、
ハーがニューヨークの編集者どもに「不快」だと弾かれた『
あしたは雨になるかもしれない。
他者の好悪の表明など知ったことか。私は私のヴィジョンを、