旅路は美しく、旅人は善良だというのに(1/2)

旅路は美しく、旅人は善良だというのに

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 カウンター席に座って、横の止まり木を見る。小さな紙切れが名札のように貼ってあった。たしか、こんなふうなことが書かれてあったとおもう。――ふたりの少年がやってきて、おれのことで妹をつかまえていった。だからでていく。すぐにもどる。酒は置いておいてくれ――おそらくもどってはこないだろうし、連れ戻すこともあるまい。かれがどういう気持ちか、わかりたくないまま考えてから、はじめの1杯を撰ぶ。まわりを見渡してみた。かれを待ってそうな人間がひとりもない。立ち去っていったのだ。酒だってもうない。ひとたび哀れにおもい、かれを偲ぶためにも酒が必要だった。ついてきた女の肩を肩でこづく。察しがいいらしく、顔をあげて応えてくれた。
   なにが呑みたいの?
 少し考えて、あまりきざなまねはよすことにした。芋焼酎だ、湯割りの。かの女は年寄りくさいとつぶやき、そっぽをむいてしまった。しかたない、金はかの女が払うのだから、すきにいわせておけばいい。
 ボックスに座った老婦人がしゃべくるのをやってえらく高い声で耳に来てた。――待ってるのよ、あたしは。かれが来るのを。でもきょうだって来なかったわ!――なんていうひとなの? 近所の子供を使いにしたりして!――待ちながら、いっぽんの木にされたわ。だからっていくとこもないのよ、あそこじゃあ。――しかも金持ちの男が来てね、あそこで話しかけんのよ。おれの眼鏡はどこ、だって。たがいにいくところがないのよ。妙ちきりんな召使いまで連れて、どこへいくのってのかしらねえ。しかもめくら。
 見たところ、かの女の相手はそれ自身のようだった。
   なに見てるの?
  あの婦人、ひとりで話してる。
   めずらしくないよ。
  よく見たの?
   あの街じゃあ、よく。
  まあ、おもしろいこっちゃないね。
  おれだって変なのにからまれたし。
   へんなのはそっちじゃあ?
 ある本でみたことがある。ゆうらく町ってとこでは60年代、首に札をぶらさげた老人どもがけっこうなかずでいたらしい。そこには「わたしに話しかけてください」とあった。ゆくところを逸してるのはあぶれものだけではないということだ。
   きみはこれからどうするの?
    どうにも。
  楽器なんて拾ってくればいいんだ、音色なんてあとからついてくるよ。
   あんたには音楽ってわからないでしょ。
   それだけ。
  ああそうさ。作曲法も和音進行でけつまづいておわり。
   単音ばっかでしかできないんだ?
  安いもんのソフトでいくつか書きあげただけさ。
   そういって、お情けもらいたいんだね。
 ぼくは笑った。でなければやっていけない。かの女は笑わない。酒場でふたりともが坐りながら立ちつくしてる。旅なんざ、ろくでもなかった。長距離バスの夜更けはたちがわるい。室内灯が消えるころを過ぎても、いっこうに眠れなかった。小壜を呑み、脚を展(の)ばそうとする。できない。あたまをうつむけるか、うえにするかでしつこく験す。都市での失態が夢のようにあらわれる。そんなときはいつも主観ではなく、どこかべつの方向から撮影された映像にかわる。じぶんが場面の1部分にすぎず、だれかがつくった、ど下手な画面におもえてくる。ウィスキーの壜を握ってたら、隣の娘が肩を叩いた。窓からふりむいて、その顔をみる。化粧臭く、香水臭い。眼のまわりを隈取のような、墨絵のような、ほどこしが濃かった。舞台からそのまんま降りてきたような生身の女。かの女は壜を指した。
  呑みますか?
 黙ったまんまうなづく。唖なのかも知れない。ふたたび窓にもどって、壜が帰ってくるのを待った。
   もっと持ってないの?
 しばらくたってから声があった。壜はからっぽだ。
  なんだってそんなものを?
   さいあくだから。
  さいやく、なにが?――いいから、はやくだして。
 ちいさく幼い声にしたがっておしまいのいっぽんをやった。いやいやなのを見せつけてながら、かの女の手に落とした。
   ありがとう。
  それはどうも。――この地点でまだ、ひとつめの休息所からでてしばらくいったところで、午前6時まで5時間はある。酒の臭いがそろそろ車内に充ちはじめてた。
  ずいぶん呑むんだね。
 なにもいわないでかの女は呑みつづけ、おれのぶんを失くそうとしてた。
  もういいだろう、おれのがない。
   黙ってて。
  勝手にしやがれ
   してあげる。だから黙って。
 箍がはずれたようだ。かの女は笑いだした。おれは壜をひったくり、その半分残ったのを干した。
   のんだくれ!
 笑いながらいわれた。塗りたくったマスカラのせいで、そのつらはあちらがわの笑みに見えた。地獄とか墓穴とか屠殺場とか夜の長距離バスみたいな笑みだ。
  知ってるよ、
  それぐらいのは。
   呑んで喪ってきたばかりだから?
   喪うのはわたしのほうがうわて。
 それからすぐに膝を寄せあい、告白しあった。ばかもの同士でだ。
   酔ってないでよく聞いててね?
 どちらも脱出にとちって帰るところだった。ろくでもないことだ。ぼくは飯場にいた。おなじ年の、とても気さくなやつに逢った。かれは組長にいわれて流れてきたらしい。やくざものだ。ふたりしてビールを呑み、現場へいった。印刷会社のビルヂングにはまだ壁もない。臭いはじめた夏が虻そのものだった。
 ある夜、いい仕事があるとかれがいう。フロント企業のひとつで20万はかたい。まったくのぺてんで、あわや、けつを奪われそうになった。ぼくは文なしだから、母にねだって運賃をださせた。かの女といえば音楽やりたさにでていくも知りあった、とてもやさしいやろうにまきあげられ、やられてしまってた。――どんなつらをしてこんな話しが聴ける?――どうだっていい。そうだ、どうだってかまわない。
  それにしても眠れないね。
 駅に着いたとき、足もけつも、うごかせなかった。窓枠に手をかませ、右足にちからを入れる。重心はそこだ。もちあげるようなかたちでまごついていたら、かの女が手を貸してくれた。
  すまんな。
   お礼にいっぽん奢ってよ。
 女の子に奢るなんてとってもきざだ。少なくとも21にもなる童貞のおれには。裸足で歩く男がコンビニエンス・ストアのまえで立ちどまる。森番にみせたそいつをよけ、ふたりは酒を撰んだ。樵は出はらってていなかった。女装のさなかかだろうか?
 高架下のルンペンたちにまじって、ポケット壜をまわし呑む。みんな敷物を片づけ始めてた。それでも、まだ寝てるのもいる。いっぽんやって、それでまたいっぽん。帰りの電車賃がなくなった。あとはほうぼうでレコードや本を眺めた。たがいの好みをただいいあって過ごした。それがいいとかわるいとかはなしに、静かに。そのあいま、側溝を走るものをみた。どぶねずみだ。おたがい、はじめてだった。走る姿だけはうつくしい。なにもいわなかった。うんざりして、もうなにもいうまいだ。酒場の場面にそろそろもどろうか。
 カウンターにケンタッキー・ウィスキーがきた。楽しい会話をねってみて、なにも浮かばないことに気づく。おれってやつはまったく、話すことに不向きだとおもった。ことばを憶えたって話せなかったころの空きを埋められはしない。こういったとき、教室をおもいだす。どこだっていい。ただ教室であればおなじだ。さむざむしい。むなしい建築、内装の賜もの。そこへいくといつもぞっとしたものだ。全身のどこを問わないで狙われてるとおもえてくる。グラスをひと息にやる。そのとき老人が入ってきた。まっすぐに紙切れのうえに坐る。ほかに空いてるのはいくらもあったのにだ。すでに酒がはいってる。
   なあ、にいちゃん。
   このまえ、S区で火事があったろ?
   おれのどやのすぐとなりだった。
   買いものから帰ってくると、
   廊下や階段を犬どもや猫どもが走ってるんだよ。
   だれかが隠れて飼っていたんだな。
   ものすごい勢いで出口にむかっていった。
   どこもかしこも煙しかなくて、そのなかを室にむかったんだ。
   おれのものが無事か、あせったね。
   おれの室には白黒のまんまのテレビがある。
   莨の脂ですさまじいけどな。
   おれはスイッチをつけて窓をあけた。そのむこうに
   でっかい、おまんこみたいな炎がうずまいてたっけ。
 かれの眼にある、黒い染みみたいなものにぼくは応える。
  それはきれいでしょうね。
 無視して老人は指をつきだすと、ここでクイズがあるといった。
   さて、おれがなにをテレビで観てるとおもう?
  皇室特集?
   正解だ、おもしろいだろ?
  なにがです?
   白黒テレビをいまだに持ってるってところがだ!
 かれはいかにおもしろいかを早口でまくし立て始めた。それからあたらしい売春宿、昔しからある売春宿、ひとの多すぎる老人憩いの家などについて語った。しまいにはぼくのことを警官かとうたぐる。かれが沈黙をやぶりつづけることだけに感謝し、次の1杯をおもう。老人は顔を手で覆った。
   おれはおもしろいのにだれもわかってくれないんだ。
  忘れていただけですよ。
   いいや、ほんとうはおもしろくないんだ。それにだれも話かけて来ない。
  きっといそがしいだけですよ。
   ふざけるんじゃない!
 立ち上がってかれは、――おれのまわりで職に就いてるやつなんかいないよ!――あたり憚らぬ声でいった。店員には透明人間らしい。そのまま、からっぽのテーブル席へ移動するのにだれも呼びとめもしない。おれだって働いてなんかいない。ぼくは連れあいにいった、
  たしかにあのひと、つまらないね。
 かの女はいつのまにか注文したか、ビールを流し込み、
   もうでる、わたし、がまんできない。

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