水を呑む男


 曇ったガラスに朝がさす。その男は目を細め、コップの底に光りを見る。上半身は裸、黒いズボンをはき、カン
バスの中央に立つ。かれの前には小さなテーブルがあって、視点はややその下を向く。細いラインが部屋を蔽い、
太いかげがかれの姿をもちあげる。壁の絵はさかさまに飾られ、意味を半分失っていた。黄のラインが室内を走り、
青のラインはかれを走る。窓には白と灰が混ざり、その向こうにシグナルが覗く。一九二〇年代の古い鉄路が通つ
ているのだ。ぼくは目を閉じて耳を澄ます。色の向こうから呼吸音が聞えてきた。これはかれの自画像であり、
白としてぼくに話し掛ける。かれにとって絵はそれの手段に過ぎない。

 ぼくはテーブルのうえを観察してみた。銀色の櫛、スケッチの数々、洋酒の空壜、出すことのない手紙の走り書
き。物語から遁れたいっぴきのとかげが干からびている。時計はもう十時を示す。時間に気をつけろ、たったひと
りの友人がもうじき訪ねてくるはずだ。ぼくはかれにコップを借り、そのなかを覗き込む。日本人にしては深い眼
窩が、そのとき不意にやわらいでぼくにささやいた。──なにか見えますか。まだかれはコップを握っている。口
に含むか含まないかの位置で止め、じっと底を見ている。夏の名残に汗ばんだ顔が微笑むと、たちまちに外は夜。
あくまで渇きを曳きながら、ぼくは水があるものと願い、生きてきたに過ぎない。しかし触れたコップは空だった
のだ。それでもかれは水を呑み終え、秋はもうまぢかにある。