旅路は美しく、旅人は善良だというのに(2/2)


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 初夏の夜だ。呑み屋通りを抜けて大きな本屋のまえへでた。ひと待ち顔の群れむれがやかましい。円柱のでっかい広告。派手なべべを着た女に表情なしでプロバイダを奨められた。その胸に手を当ててみたい。いつか、あれのねたに使おう。またふたりしてポケット壜をまわした。700円以上もした。黒いやつ。ぼくはときおり、かの女の顔を盗み見ては、化粧を落とせといいたくなった。でもいまはこいつの金で呑んでいるんだ。下手なことはいえない。女はみんな意地がわるくて、悪意にはそこというものがないんだ。それを発揮されれば手に負えない。黙って離れるだけだ。つき合ったことはない。だがほかの場面でよくおもい知らされてるつもりだ。ぼくはチェイサーにビールを嘗めながら、そういう場面をおもいだそうとしてた。
   ああいう店にはよくいく?
  まえはいったよ。
   あんなところのどこが楽しくて?
  べつに楽しくなんかないな。
  酒は高くて量は少ない、
  店主は無愛想だし。
  知ってるひとが、
  なんとかいうやつの朗読をやってて、
  酒を奢ってくれてたから。
   そのなんとかいうやつをそっちは読まなかったの?
  たまには読んだ、うけ狙いで。
  でも、おれは舌がよくまわらないから、
  いろんなところでつっかえて、みんなに笑われて、
  そいつが酒になった。
  ズブロッカってやつが好きだったな。
  透明で、壜に草の茎が漬かってる。ぽーらんどの原産らしい。
   ぽーとあいらんどってあの港の?
  いいや、ソ連の近くにある国らしいけど。
   ばかみたい。
  ばかそのものさ。
 ぼさっと突っ立ったまま呑みつづけ、そのまま21時を過ぎた。いろんな目玉がふたりをつけまわした。かの女をからかうものもいた。なにもできないことにただあきれてた、みずからへ。
   うせやがれ!
   このくそちんこ!
   いいかげんにしないとその口をひん曲げてやる!
 活躍したのはかの女のほうだ。しばらくして数駅先の暗い町で降りた。そこはかの女の地元であり、こちらがけつわって逃げた就職の、研修者寮のあるところだった。そこで2週間いた。せまい室は相室。背の高い、丸眼鏡の男が一緒だった。
 その日の技能講習が終われば、そこらへんを遅くまで呑み歩いた。ただ金だけが減っていき、気がつくというぐあいでバスに乗っていた。ほんのひと月まえのことだ。もしかしたらまだ棄てていった荷が残っているかも知れない。ふたりは歩きながら入れそうな店を物色した。そこらにはコンビニエンス・ストアも、酒の自動販売機もなかった。暗い栗褐色の通りをゆっくりと歩き、なるべくなかの薄暗い、ふたりのひどく酔ったさまや、かの女の幼さの通らないところを探す。
 どの店にもそれぞれ見覚えがあった。つまんないところもあったけど、親切でいいひとたちにもであった。あるところでは就職祝いに奢ってくれ、つぎの日にまた会いたいといってくれた会社員のおっさんもいた。生憎その夜には旅路に就いていたが。明るい店主の夫婦、それにかれらのだした焼きそば。
 行きのがら空きの車輌でおもったのは、あたらしい空想のものがたりだった。おんぼろでも寛げるアパートメントと、なにかわからないが、なにかを産みだすおれ。生まれてこのかた、あたまのなかの、もうひとつの世界にぼくはおぼれて来た。その穴ぼこのなかで傷みを忘れ、充ち足りてきたから、もの憶えのわるさも、からだの弱さも、みてくれのまずさも、つながりのなさも、咽もとを過ぎるのがあまりにも早すぎた。そうとも、おれはもっと苦しむべきだった。
 女がうえを指差してる。
   あれにしよう!
   あそこがいい!
   ちょっと!
   どこ見てるの!
 白にちがいはないけれど、かなり汚れたビルヂングの上階に看板が掛かっていた。カラオケ居酒屋。まちがいない。いったことのあるところだった。その名もごくつぶし。ひまつぶしだった気もする。おれは断ろうとおもったが、かの女のはじめて見る、明るい顔のせいで、したがうままにしていた。4階まで螺旋階段をのぼる。扉をあける。赤黒い照明だか、内装のなかに半円状のカウンタ―と、ソファ席、カラオケ用のひくい壇がぼんやり浮かんだ。まえに来たときとおんなじで客はおらず、中年過ぎの太った女主人が止まり木、若いバーテンダー姿の女が酒のまえに立っていた。ちがっていたのは若い女で、前回にいた、髪のみじかい、おれ好みの美人ではなく、目鼻立ちのはっきりしない青白いのがいただけだ。残念なのか、ありがたいのか。
 女主人はひくいしゃがれ声で挨拶をし、ふたりをカウンターに手招きした。どちらともウィスキーの炭酸水割り。もうあまり呑めそうになかった。そいつを2度おかわりしてから、かの女は歌いだすといった。1曲が100円だ。おれはとめなかった。かの女の歌ったのが、なんという曲なのかわからない。けれどどこか、カントリー調だった気がする。歌はうまかった。ただ酔ってるせいか、舌足らずに響いた。ぼくはといえば、ひとまえで歌ったことなどなかった。
 以前きたとき、古いジャズ歌謡ではじめて唄った。『女を忘れろ』というものだった。曲間のドラム・ソロが気に入っていた。女主人はそいつを聴いて音痴だけどうまいといった。この夜、どうやらぼくのことを憶えてないらしかった。わが恋人もどきはさらにもうひとつやって終わった。みんなで拍手を送ってやり、ぼくは口笛だって鳴らしてみせた。上機嫌でもどったかの女に、こちらがまだ口をつけていない酒を丁重にゆずる。そいつはいっきに呑み干された。
    そっちも歌ってよ。
   こんなひくくて鼻にかかる妙な声で?
    いいとおもうからやってよ。
   じゃあ、やるってやるよ。
 ぼくはあまり考えもせずに席を空けた。酔っぱらっていて、もうなにもかもが温かかった。それだからおなじ歌を、まえとおなじように撰んでいた。これでこちらのことがおもいださされるだろう。ダイス、転がせ。ドラムを叩け――就職と自立について語った口ぶりがいかにまがいものだったか、はっきりするだろう。やけにしんみりする夜だ。間奏のドラム・ソロにのって、からだをゆすり、いかにも悲劇的なつらをしながら歌っていた。忘れろ、忘れろ、あの娘なんかはよ。――みんな表情がなかった。おれは締めのソロが終わるまえに席にかけ、からっぽの容器をつまみあげた。できるだけ粋に見えるように。もう1杯だけ。女主人がこちらを見据えた。
     音痴だけどうまいわね。
  それはどうも。
     あんな古い曲、どこで知ったの?
  映画ですよ。
     そんな映画、いま観られる?
  衛星でやってます。
 でまかせを答えてばれるのを待った。あちらさんはそれ以上訊かず、ちがうところに水をむけはじめた。――ところでおふたりさんはいくつなの? おれはどうってこともなかったが、かの女はちがった。大きいその眼をびくつかせてしまった。まったく、なにをいまさらおびえてる?
 でも、女主人だって悪党じゃなかった。曰く、
     安心して、
     黙っててあげる。
     なにもうらなんてないの。
     あたしの友達がやってるホテルがあるのよ。
     安くてきれいなのに近頃、
     客足がにぶいのよ。
     今夜だけでも泊まってやって!
     ねえ!

                                                      *

 安宿の主人も太った女だった。もしかしたら遠い親類かなにかかも知れない。これで3人めが、エクレアといっしょに現れないことをわずかながら祈る。ほんの連想にすぎないのに、縁の薄い文庫本があたまのなかにあった。たしかモームの短篇だ。おれの恋人がどやよりも安い、ただ同然の小銭を払う。そしておれとおなじようにおれたちを車で送ってくれた女主人にふしぎそうなまなざしをむけていた。
 どこかになにかが隠れていたっていい、そんなところだった。もとは近代的だっただろう、内装もひびと汚れと埃とかびで、そこらじゅうがやられていた。壁は黄色く、床には緑の敷物。まあ、小さくて目立たないところにある、この4階建ての昭和モダンはなかなか興をそそった。おれはそういうところが好きだった。どうせならジャケットと、中折帽子をかむって来ればよかった。そんなもの、持ってない。
 提供されたのは、4階の小さな1室だった。かわいげのある狭さだ。ベッドカバーは深紅。色っぽいかもしれないが、いつ洗ったものなのか見当もつかない。寝台のわきに小さな鏡台と照明があった。テレビジョン、テーブルはなし。シャワーと便所のみ。かの女はまっさきにからだを洗いにいく。どういうわけか、この階だけ窓硝子がない。かわりに緑やら赤の文字が入った合板が貼られていた。いや、打ち付けられていたんだ。おれは文字を見た。製造元のなまえだろう。かすれていて、どう読んでいいものかはわからなかった。でも、これとおなじものを実家で見ていたっけ。ねじの入れ方が執拗だ。
 父は日曜大工に執り憑かれていた。もともと平屋で買った中古のわが家だったが、かれはそいつを20年以上、改築に費やしていて、おそらくそれに終わりはないだろう。いつもどこかをつくり、どこかつくったところを毀していた。通りがかったひとびとがおかしな眼で眺めた。少なくとも幼いころはかれについて。なんでもできる、すごい父だとおもっていたし、敬ってもいた。
 しかし、そうしたことにつき合わされつづけるにしたがって、けっきょくは狂気を学ぶために準備された、はじめての教材であると覚った。家すなわち、それは父だった。そして家にある以上、そこにあるものはかれの所有物だった。かれは毎日、ひとり息子に手伝わせているのはほんの少しの、どうでもいい箇所に過ぎないと声を荒らげた。日曜日の朝からひねもす、罵り声と金鎚の柄を味わい、御奉仕させられながら、しかしかれの息子はおもったものだ。マスはひとりでかくものだと。
 かの女はもう寝台になだれていた。スカートがもう少しでめくりあがる。酔いの醒めはじめたあたまで、そのさまをぼくは描いた。早いところ、そうなってしまえよ、な。なにかはじまる予感こそしたが、なにをしたものだろうか、まごついてもいた。なるたけ音を発てないよう、気配りながら歩み寄り、まだ17の女の子の横に坐った。化粧は落とされていて、はじめてみる素顔は素朴すぎたが、それがよかった。きれいで、お高くとまった感じがない。薄目をあけながら荒い息をしている。
   水をちょうだい、
   炭酸水か、天然水で。
 かの女の声がした。その通りだ。ぼくも欲しかった。さっそく階下へ急ぎ、フロントに声をかけた。まぼろしの3人めはいなかった。どうやらまだらしい。安心した。エクレアを突っ込まれるのはぼくかも知れなかったけど。――ぼくはかの女の財布から金を払い、ふたつのペットボトル、炭酸と天然、自分用にジンの青い小壜を受け取った。急に怖くなったのだ、なにかが。もどってきたら音楽が聞えて来た。携帯ラジオをかけていた。半透明の赤い色。ストラップの紐があって、首から掛けられるようになってる。そんなもの、はじめてみた。
 かつて好きだった3人組のバンドが、いまは4人になって、そのときにぼくには好きになれそうにない曲をやっていた。どうでもいいことだ。勝手に期待してうらぎられた気分になるのはまちがいだ。かの女はその曲が好きそうだった。鼻歌。おれはいつかは好きになれるかも知れない。ぼんやり受け止めながらボトルを2本、眼のまえにかざした。どっちがいい?――炭酸がいい。蓋をあけてから手渡すと、ありがとうと小声でいってから、ほとんどいっきに呑みだした。小さなボトルはからになった。かの女はもういっぽん、天然水も口につけた。こっちは少しづつだ。ぼくはべつの曲がかかるのを待ちながらジンをあけた。――なによ、それ?
 もらったのさ。
  うそつき、勝手に買ったくせに。いつまで呑むの?
 だいじょうぶ、これで終わるよ。
   いつまでもそっちの面倒見切れないから。
 ぼくたちは黙ってラジオを聴いた。しばらくしてかの女がこっちをみた。
   少しだけ呑ませて。
 ぼくは直に呑んだやつをそのまま渡した。いぢわるのつもりだったが、むこうにはどうでもいいことだった。肩透かしを喰らってるはたで、青い壜を電燈にかざし、その輝きを眺め回していた。おれは訊いた。
  きれいな壜だろ?
   うん、ほんとに。
  それ呑むと、青い小便がでるんだぜ。
   きたない!

                                                      *

 ほんとうの故郷はここじゃない。かの女はラジオに合わせてつぶやく。それがかの女の歌声だ。こちらはなんにも返さず、残り酒をちびりちびりだ。もうなにもわからない。酔っていない。でも酔ってた。あたまが冷静さを装ってる。いちばんたちがわるい。気持ちがいいのか、わるいのかの決まりもつかなかった。シャワー室から盥を持ってきて寝台の脇におく。手ぬぐいを枕のうえにかけておいた。
   どうしたの?
  げろするかも知れないだろ。
   やめてよね!
   被害に遭うのはこっちなんだから!
  そっちだってそうとう呑んでるよ。
  あぶねえのはおたがいさまだろ?
   あんたほど呑んでないって!――ばかじゃないの!――脳みそが融けてるんだって!
  うるせえな、くそったれ!――くそがきは黙りやがれ。顎をひんまげてやろうか?
   けんかもできなきゃ、働けないやつがなにいってもおんなじ!
  いいから黙ってろよ。
  せっかくかわいい顔してんだ、もったいないじゃないか。
  おれと愛し合おうぜ。
  やりにやる、やってやってやりまくる!
  おれはめんくいなんだよ、いつもいい女に惚れてきて、いつもきらわれてきた。
  でなけりゃ、知られることもねえとくる。あんたとなら何回だって、――長々とせりふをいった。しょっちゅうつっかえて、なにをいってるのかもわからないとこが多かった。恥ずかしいくらいに訛ってた。大きらいな近畿訛りだ。かの女はしばらく表情もなしにおれを見あげてた。こっちがいい終わるのを待って仕返しにでる。そいつはこんなかんじだったとおもう。
   ふざけんなよ、醜男。
   あんたは甘ったれてるだけ!
   じぶんを掴まえてくれるのを、
   バスみたいにずっと待って、来ないまんま死ねばいい。
   あんたって死体が歩いてるみたい。
   わたしとちがって夢も目標もないし、だれかに出会おうって気力もない。
   わたしは失敗はしたけど、学ぶことはできる。あんたとちがって!
   くだらないものが脚のあいだにくっついてるからって偉そうに。
   男はどうしてそうなの?
   じぶんだけは賢いなんて、じぶんだけはばかだなんて、
   どうしてたやすくおもう!
 ラジオが飛ぶ。こちらに飛んでくる。あたらなかった。あたったのは合板で、外装を少しちらして床に転げた。ノイズもまた音楽のひとつだ。それを聞きながら寝台に坐る。床で寝ろとはいわれなかった。しかしそのおもざしは反対だ。
  きみのいうとおりだ。ぜんぶ。
  おれはじぶんがいちばん賢くてばかな死体だとおもってるよ。
  展望もなんもない。
  ただただ好きなものがあっただけだ。
  それをまねしてばかげたことをやっただけ。
  笑えない。
 わたしは、とかの女はいいかけた。いいかけてやめる。わたしは、――ほんとうにすきだったか、わかんない。
  音楽のこと?
   でも、あなたはそれが好きなんでしょ、ほんとに。
  しがみついてるだけかもな。
   お幸せ。
  それはどうも。
   その、なんとかっていうの、楽しかったの?
  いや、ただひとに遭いたかった、誉められたかった、話したかった。
  でも話すことなんかなにもなかった。
  ぜんぜん見つかんない。
  言葉を憶えるのが遅すぎてしまった。
   喋る自信ない?
  どもりがある。
   ぜんぜんないって。酔ってるからでしょ。
  いまでもつっかえるんだよ。あっ、とか、えっ、とか。
  そうしてからじゃないと反応できないよ。
   そういえばそうだね。でもひとまえじゃ、なにか読んだんでしょ?
  あっ、いろいろとね。
   そのころから呑んだくれ?
  幼いころからだよ。母方のじいさんがよくビールの泡を呑ませてくれて、
  酒はいつもあこがれだった。
   しょうのないこと。
  わかってる。けどわかってない。
   なにそれ?
  格言。おれの。
   ちっともおしろくない。そんなんでいったい、なにが書けんの?
  もうなにも書かない。
   じゃあ、どーすんの?
  倉庫作業かな。
   その身体で?
   ちからいるでしょ?
  出庫係でもしようかな、品物のかるいところでね。――鼻で笑うというのをおやじのほかにもみた。くだらない自己暴露をやりたくていつもおれはうずうずしてる。いま酔ってからよけいにそれはでてきた。「わたしは死ぬか、隠れて暮らしたい。でもそのまえに」――不運な女はきらいだ。うつくしくない。耐え忍ぶ女もきらいだ。うつくしくない。でもやり返そうとする女はよかった。これで運さえ、ついてくれば文句はない。でもそれはどこにある?
  そういえば、だれかがいってたよ。
  〈秋風や人さし指はだれの墓〉って。
 「おれはどういうことだかわからなかったけど、それってすんごくさみしいことだよな」――だれもが手に墓つけながら歩いたり、笑ったり、もの喰ったり、くそしたり、2段階右折したり、列にならばされたり、鉄条綱のむこうにいたり、病院に入ったり、ベストセラーの本を読んだり、面接官に呼ばれたり、検察官を接待したり、呼びだし喰らったり、出荷伝票とにらめっこしたり、しょんべんしたり、帰るところがあれば帰って、なけりゃ陸をひき、好きなやつにきらわれ、好きでもないやつと笑いあい、歌を唄ったり、働いたりするんだからな。
   それでも、いきつくところがいっつもそこにあって、
   秋のかぜが吹いてるなんてきれい。
   すんごくきれいにおもう。
  きれいなのはきみのほうだよ、なんだってあんな化粧してたんだ?
   すべてが怖かったから。
   だれにも近づいてほしくなかったの。
  ナンパとかされるんだろう。
   あなたはできないでしょう。
  じゃあ、おれに話しかけてきたのは?
   いったらわるいけど、そっちがあまりにもぶさいくで、
   暗くて冷たい顔してるから急にからかってみたかっただけ。
  それで?
   それでって?
  うまくいったの?

                                                      *

 午前3時をまわっても、ふたりは起きていた。横たわっているだけで、ラジオに耳を傾けたり、とぎれとぎれな会話をしてなにもせずにいた。どっちかで手を握るか、頬を撫でてみるか、何通りもの、着想があったが、どれもやれなかった。やっぱりおれは童貞だった。天井の灯りを消して、スタンドに切り替える。靴下だけを脱いで床に抛る。かの女はじっと眼をあけて、ラジオのほうを見ていた。ひとりでやるようにシャツとズボンを脱ぎ捨てる力がだせなかった。そとの路地から自動車の音が聞えて来る。やがてそれは真下で停まった。
 「ところで、女の子とつきあったことあんの?」――あるわけないだろが。――好きになったときって、モテないのはどうしてんの?――想像力のないやつだな。――わるかったね。で、どうすんの?――好きなのがばれてきらわれるのを待つだけさ。――どんなふうにきらわれんの?――黴菌扱いされたり、ものを盗られたりだよ。小学生のころだった。――仕返ししないの?――そんなこと、どうやってできるんだよ、相手は女、わるいのはぜったいに男さ。
   みじめだね。
  きみはどうなんだ? だました男に復讐しないのかよ?――いつか、ぜったいにしてやるわ。あんたとちがって叩き潰してやる。――つよい女だな。ますますそそってくる。
   気持ちわるい。
   死ねばいいのに。
  ああ、殺してくれよな。
   いや!――じぶんでやって!
 かの女が眠りに就いてから、その顔をコンパクト・カメラに収めた。それからぼくも眠った。酒はかえって眠れなくさせた。やがてかの女の吐く声が聞え、合板のすきまから入る光りが眼をあけさせた。まだ6時だ。かぜが路地裏から吹きあがって塵をいっしょに室に入れてる。だいぶ酔ってから、盥をあらかじめ、そばにしてて助かった。3度吐き、指を汚す。まだ残ってる炭酸水でしたたかにうがいをし、もういちど眠った。3時間経ってた。
 また酔いが残ってた。ふたたび水を呷り、どうにかしようとする。どうにもならない。かの女はいなくなってた。窓辺の床にラジオが転がってる。スピーカーの桟みたいなところが何本か折れ、散らばってた。横っつらにも罅がみられる。ひろいあげ、とりあえず鞄に入れる。カメラが失せてた。紙片がいちまい、寝台のうえにみえる。――はじめにきた駅で待ってて。ふたたびこみあげてきて洗面台に走る。盥はいっぱいだった。くるしさはいつだって新鮮だ。おなじ階をまわってもかの女はなかった。階をあがってみせる。室の戸のひとつひとつを検分にみせてふれる。そのなかにひとつだけ、半開きのを見つけた。断りを入れ、そのうちかわをうかがう。まず砂っぽい、よごれた足もとが覘いた。そこには入って左の壁に背をあずけた女の子が立って、こちらを見あげてた。寒色の、柄のあるワンピースを着て、かすかに笑む。その衣もどこかしらうすい汚れがあった。