インターネットと詩人たち


                              いわば情報社会における人間相互間のスパイである。
                                                寺山修司/地平線の起源について(『ぼくが戦争に行くとき』1969)


 小雨の多い頃日、わたしは自身を哀れんでいる。あまりにもそこの浅い、この27年の妄執と悪夢。なにもできないうちにすべてがすりきれてしまって、もはや身うごきのとれないところまで来ている。あとすこしで30になるというのにまともなからだもあたまもなく、職までもないときている。そのうえ、この土地――神戸市中央区にはだれも知り合いすらいない。もっとも故郷である北区にだってつながりのある人物はほとんどない。
 わたしが正常だったためしはいちどもないが、日雇い、飯場病院、どや、救貧院、野宿、避難所――そんなところをうろついているあいまにすっかり人間としての最低限のものすら喪ってしまい、もうなにも残ってはいないような触りだ。ようやくアパートメントに居場所を手にしたが、ここまできて正直をいえばつかれてしまった。回復への路次を探そう。
 考えるにインターネットは人間の可能性への刺客――同時に人間関係への挑戦状であって、その接続の安易さによっておおくの創作者をだめにしている。しかも偶然性に乏しく、なにか出会うとか、現実に反映させることはむずかしい。広告としての機能はすぐれているが、単純に作品を見せるにはあまりにも余剰にすぎるのだ。
 無論、巧く立ち回っているものもいるし、もちろん、これは社会生活から、普遍から脱落してしまったわたしの私見に過ぎないのだが、この際限のないまっしろい暗がりのうちでは、なにもかもが無益に成り果てる。作品のあまたがあまりにも安易にひりだされ、推敲はおろそかになり、他人への無関心と過度な自己愛を、悪意をあぶりだされ、あらわにさせる。せいぜいがおあつらえの獲物を探しだし、諜報するぐらいではないのか。創作者のなかには好事家もおおく、無署名でだれそれの噂話しをしているのをみかけた。
 そのようなありさまで現実でのあぶれものは、やはり記号のなかでもあぶれるしかないのである。身をよじるような、顎を砕くようなおもいのうちで意識だけが過敏になっていき、あるものはその果てにおのれをさいなむか、他者に鉈をふるうしか余地がなくなってしまうのだ。やはり現実の定まりをいくらか高めたうえで、少しばかり接するほどがいいらしい。
 寺山修司は映画「先生」について述べている。曰く《先生という職業は、いわば情報社会における人間相互間のスパイである》と。先生をインターネットにおきかえても、この一語は成り立つだろう。おなじくそれは《さまざまな知識を報道してくれる〈過去(エクスペリエンス)〉の番人であるのに過ぎないのである》。ほんとうはもっとインターネットそのものに敵意を抱くべきなのだ。それは生活から偶然を放逐し、あらゆる伝説やまじないを記録と訂正に変えてしまった。しかし、《実際に起こらなかったことも歴史のうちであり》、記録だけではものごとを解き明かすことできないのである。〈過去(ストーリー)〉のない、この記号と記録の世界にあって真に詩情するというのは、現実と交差するというのはいかなることなのか、これに答えをださないかぎり、ほんとうのインターネット詩人というのものは存在し得ないし、ネット上に――詩壇――くたばれ!――は興り得ないだろう。俗臭の発ちこめる室でしかない。
 わたしはあまりにもながいあいまにこの記号的空間にいすわりつづけた。そのうちで得たものよりは喪ったもののほうがおおい。現実の充足をおろそかにし、生活における人間疎外を増長させたのだ。詩人としての成果といえば、中身の乏しい検索結果のみである。あとは去年いちどきり投稿した作品が3流詩誌に載ったくらいだ。原稿料はなし。
 わたしはいやしくとも売文屋や絵売りや音楽屋や映像屋になりたかったのであって、無意味な奉仕に仕えたいわけではなかった。しかし、この敗因はインターネットだけでなく、わたし自身の現実に対峙する想像力と行動力の欠如にあったとみていいだろう。けっきょくは踊らされていたというわけだ。このむなしさを克服するにはやはり実際との対決、実感の復古が必要だ。想像力を鍛えなおし、歩き、ひとやものにぶっつくことなのだ。そうでなければわたしは起こらなかった過古によってなぶられつづけるだろう。 不在のひびきが聞えてくる。いったいなにが室をあけているのかを考えなければならない。対象の見えないうちでものをつづるのはなんともさむざむしい営為だ。創作者たらんとするものは、すべからく対象を見抜くべきだ。見える場所を見つけるべきなのだ。わたしのような無学歴のあぶれものにとっては技術よりも手ざわりを、知性よりは野性をもってして作品をうちだしていきたい。というわけでいまはわたし自身による絵葉書を売り歩いているところである。そのつぎは手製の詩集だ。顔となまえのある世界へでていこう。
 それははからずもインターネット時代の、都市におけるロビンソン・クルーソーになることだ。――小雨のうち、いま2杯めの珈琲を啜る。午前10時と13分。ハウリン・ウルフのだみ声を聴きながら。詩人を殺すのはわけないことだ。つまりそのひとのまわりから風景や顔や声を運び去ってしまえばいいのである。そしてすべてを記録=過去(エクスペリエンス)に変えてしまえばいいのだ。文学はつねにもうひとつの体験であり、現在でなければ読み手にとっても書き手にとってもほんものの栄養にはなりえないだろうとわたしは考えているところだ。
  夏の怒濤桶に汲まれてしづかなる――という一句があるようにインターネットはあくまでも海という過古を持った桶水の際限なき集合であり、現実や人間の変転への可能性はごくごく乏しいものなのである。

                              ひらけ、ゴマ!──わたしはでていきたい
                                                     スタニラス・ジェジー講師


 わたしの気分はこれそのものにいえるだろう。まずはネットを半分殺すとして、ぶつぶつとひとのうわさにせわしない、好事家よりもましなものをあみだす必要があるだろう。また紙媒体の急所を突くすべをあみだすことだ。ともかくこれからなにかが始まろうというのだ。最後にもしもインターネットになんらかの曙光があるとすれば、そこにどれだけの野性を持ち込めるかということだろう。集団や企業によってほぼ直かにいてこまされることが前提となっている、あるいはだれにも読まれないことが決まってる、記号的空間のうちにどれだけ、もうひとつの現実を掴むことが重要な段差として展びていく。──けれどそいつはほかのやろうがひりだしておくれよ。
 わたしはいま、しがない絵葉書売りに過ぎない。ふるいアパートメントの階段がしっとりのびていき、その半ばへ腰をおろすとき、はじめに見るのはわたしの足先だろうか、それとも鉄柵よりながれこむ光りだろうか。

Other Voices

 春を皆兎唇のごとき少女らは
 
 密会のまぼろしばかり葉の桜
 
 花ぐもり羞ぢを生きてか夜露落つ
 
 蝶番はずれて訪ふ夜の雨
 
 ゆふれいの足美しき裏階段
 
 鋪道満つしずくやひとの群れみせて
 
 裏口に歌声低くdoorsは
 
 ソーダーの壜よりあはれ群れなぞの
 
 鉄路踏みをんなひとりの春は雨
 
 墓のごと背見せて歩く男かな
 
 テレビらの眠れる路上湿度高
 
 花冷へやあしうら白き日暮来て
 
 みどりごの悲しみやまず青電車  
 
 ねがへりのたびに眼ざめる機械かな
 
 サーカスの灯火とともにわれも消ゆ
 
 透きとほり朝露まれる乳房欲し
 
 猫の尾をふめば煙の夜来たり
 
 人影のにせものばかり高煙突
 
 かのひとの声のかりそめ日傘過ぎ

Other Voices


 春を皆兎唇のごとき少女らは
 
 密会のまぼろしばかり葉の桜
 
 花ぐもり羞ぢを生きてか夜露落つ
 
 蝶番はずれて訪ふ夜の雨
 
 ゆふれいの足美しき裏階段
 
 鋪道満つしずくやひとの群れみせて
 
 裏口に歌声低くdoorsは
 
 ソーダーの壜よりあはれ群れなぞの
 
 鉄路踏みをんなひとりの春は雨
 
 墓のごと背見せて歩く男かな
 
 テレビらの眠れる路上湿度高
 
 花冷へやあしうら白き日暮来て
 
 みどりごの悲しみやまず青電車  
 
 ねがへりのたびに眼ざめる機械かな
 
 サーカスの灯火とともにわれも消ゆ
 
 透きとほり朝露まれる乳房欲し
 
 猫の尾をふめば煙の夜来たり
 
 人影のにせものばかり高煙突
 
 かのひとの声のかりそめ日傘過ぎ

初秋のスケッチ

 初秋にて現るる死人ひとりのみ

 

 秋暮れる雲間にピアノ聴ける使者

 

 月蝕や喪われゆく未亡人

 

 秋霖の烈しき真昼水を呑む

 

 水にふくれる陽光もやがて秋

 

 火事遠き果肉のごとき匂いして

 

 さすらえるもののみこそ秋の月

 

 犀を飼うわが幻想よ竹の色

 

 瘋癲の死す秋ありぬ保護室

 

 縁日の世界も終わり万華鏡

 

 秋月や連れて歩いて迷うまま

 

 陽もやがてみじかくなりぬかげの意味

 

 鳥影や地上に映ゆる黄葉なり

 

 亡国の猫いっぴきよかげ長し

 

 砂充ちて閉ざさるるのみ海水浴場

 

 夜風冷え姉の死后まで眠る犬

 

 骨を透く秋雨ばかり検査にて

 

 少年期遠きおもかげ秋祭

 

 階をのぼり来たればもう九月

 

 訪れて消ゆる初恋芒原 

 

 河に群るる蜻蛉のなかに日暮れあり

ドン・コサックの諧謔曲

 忌中なりドン・コサックの子守唄


 欠伸して入海自死を試みぬ


 投宿の仄暗きなか横たわる


 遊技場の電飾残る輝きや


 電柱のかげまぼぼろしやまほろばか


 曇天の雲路の果てを呑み尽くす


 憐れみのなき隣人の電子ピアノ


 電気ギター炎上するに音烈し


 枳の花の匂いに惑う硝子の庭園


 ドノ・ヴァンの歌声淋し自閉症

ディック・フランシスを読んだことがない

ディック・フランシスを読んだことがない

                                                      *

 あわやぶちこまれそうになった。――どこに?――留置場ではない、救済所でもない、失業者相談窓口でもない。おれのけつの穴へ、銃口でもなければ、パイプでもバイブでもないもの。骨のない、やわらかくなったり、かたくなったりするものが、皮と肉と管によってできてて、おれやあんたの股のあいだにあるやつがだ。
 「おい、おまえ。そこでせんずりしろ!」――なんでだ、手品はどうした?――これも裏切らせないためだ。――おれは寝台へ、全裸でよこたわり、またぐらをしごきはじめる。やつはそれをじっと眺める。そして鞄からおもちゃのあひるをとりだす。「これがなんだがわかるか?」――おもちゃのあひるだ。――おもちゃのあひるです、だろうが!――すみません。――こいつが怒りだすまえにいき果てろ。わかったか?――やってみます。
 「おまえ、紫色の公衆電話の話、知ってっか?」――いいえ。――まあいい。おまえにいったってしょうがねえ。――ポルノがテレビから流れてる。さえない代物だ。おれは勃つんじゃない!――そう自身へいいつづけてた。――はやくしろよ、それともおれがしごいてやろうか?――しびれを切らしたか、小男はおれのを掴んだ。立ちあがっておれの背後にまわる。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
 それだけはやめてくれ!――おれは哀願し、なんとかその場を遁れた。いったいなんのためにおれはこんなところにいるんだろう。

                                                      *

 工場は米の投入役を求めてた。採用された。ミラーの『冷房装置の悪夢』を持ってった。ふたりの若い男が退職をひかえて嬉しそうだった。仕事は単純だった。いやなやつがひとりいるらしい。そいつはリフトを運転してた。リフトが運んだ米袋を開封し、脱穀機へながした。父が勝手におれの鞄をあけた。ミラーを見て激怒した。職場に本などもっていくな!──というのが新しい訓示だった。理由を聞いても答えない。従わないことでおれは、その謎を解こうとした。しばらく経って、やつは気に入らないことに怒ってるだけなんだと合点した。福知山の脱線事故のあとだった、「たつや」の女将から電話があった。おれが巻き込まれたのか、心配してくれてた。あの事故で亡くなったひとで知ってるのは、小学生のときに通った床屋の女将だけだ。
 仕事は粉塵による鼻炎がひどく、2週間でやめた。米の粉が吹きあがって来る。マスクをすればよかった。三田の駅前で電話をかけた。やめますといい、途中で切ってしまった。それでも金は入って来た。おれはもういちど東京へむかった。とりあえず路上に坐った。老いたルンペンがよってきた。
 よお、あんた、どっから来たんだ?――神戸からです。なにしてる。――いまはなにも。仕事を探してます。――おれはきょう金が入るんだよ。そのまえに飲みもの、奢ってくんねえか。あとで返すから。痩せたからだに半袖を着てて、金はなさそうだった。それでも、おれは老人を信じて飲みものを買った。見返りのためじゃない。かれは亢奮ぎみに「おまえに11万やるよ!」といった。11万は来なかったが、かれがよくしてくれた。もとはやくざで、移民2世、妻が死んでから路上に入ったといった。菓子パンやスピリタスをわけてくれた。2日たっておれはいった。
  なにか仕事はありませんか?
   ホストなんてどうだ?
   あんた、いい顔してるしなあ。
   あるいはシンナーでも売るかだな。
   しかし最近じゃあ警察がうるせえからなあ。
  飯場とかないですか?
  倉庫とか?
   そういうのならいっぱいあるよ。
 翌朝、地下道でかれは手配師にひきあわせた。話しはすぐに決まった。小さな路線をひきつぎして飯場、加藤組へ来た。そこは八王子の住宅地のなかにあってトタンで覆われてた。まずは食堂に招かれ、ひさしぶりに飯を喰う。つぎに湯に浴みだ。『東京流れ者』を口にしていると、湯加減はどうかと声がする。
  問題なしです。
 室は大部屋で数十人との共同だった。莨に黄ばんだ壁をながめてると、男らが帰ってきた。かるく挨拶をすます。あとはなんにもできることがない。10時の消灯までうごけずにいた。ノートを広げて発想を待つ。観察されてるようなさわりがあった。たしかにだ。ここのまえにも所沢の中村組という飯場にいた。室が決まるまでコンテナハウスのなかに入れられた。室は、3人組の相部屋で、室の入り口にはアニメキャラクタの等身大パネルがあった。初日、中目黒のアパートメントに行かされた。基礎工事の手元作業。コンクリートの打設のため、鉄骨をブラシで洗った。地上へは仮設階段がある。昇り降りするたびに揺れ、怖かった。昼食、おれは弁当を忘れてしまってた。それを察したのか、老人が菓子パンをくれた。夜、仕事から帰って来ると、室の長らしいのが凄んだ。――おまえ、挨拶もできねえのかよ!――ぶっ飛ばされたいのか!――こんなところにはいられない。あたまのいかれたおたくやろうなんざごめんだった。おれはさっさとでた。
 村下渉に出会ったのは、翌々日だった。やつはワゴンの窓際でけだるそうにしてた。現場は大日本印刷・事務所ビル。黒い鉄骨をむきだしにした陰茎のようにみえる。からだがまるでうごかなかった。足場を組むのを手伝ったり、ガラだしをやってるあいま、倒れそうになる。不安定な仮設階段はめもくらむ揺れをくれた。
   そこのおまえ、足場を組め!――おまえ、おれより喰ってるんだろうが!――もっと動け!
 ひょろ長の男が罵声を浴みせるのを黙って聴いてた。こいつを叩きのめして、スコップの味見をさせてやりたい。休憩のとき、おれは氷をタオルに包み、頭にあててた。雨季をまえにして夏は来てる。地下の詰め所に降り、じぶんの飯場の卓を探す。そこにはあのちびっこがいた。――大丈夫か、あんた?――じぶんでもわかるほど顔が青くなってた。坐って相手をみた。160センチ、あるかないかのちびだった。でもこいつだって要領よくやってるんだろう。涼しい顔をしてる。どんなことでも抜かりなしといった様子だった。おれは自身を憐れみ、ただ腰を降ろした。――歳は?──今年で21だよ。――おれとおなじじゃないか!――やつは笑って莨をさしだした。いっぽんとって喫む。つまらねえ代物だ。酒を呑みたかった。やつは村下渉と名乗った。
 「おれはじつはやくざなんだよ」とやつはいった。14歳からかずかずの非行を重ねて来たとか、もとは金髪だったとか、年上の女と実家で暮らしてるとか、医者にハルシオンを要求して拒否されたとか、そんな与太を喋った。じぶんには別に仕事があって、そこは高給で楽ちんだ、おまえも来ないかといった。
  なんでこんなところにいるんだ?
 「しくじりをやらかしてよ、組長の命令で来たんだ。どうだい、こっちをでたらいい仕事がある。――のらないか?」──おれは警戒して遮った。いや、おれもでたら用事があるんだ。わるかったな。――おれは警戒してた。こんなやろうとは離れるべきだ。それでもだんだん。ふたりで話すようになった。晩酌のビールをやつとわけあい、やつが仕事についておれをフォローしてくれることもあった。しかし飯場にも労働にもあきあきしてた。とてもおれのからだに合わない。詰め所でぼやいた。
 もうやめるよ。――やめてどうする?――地元に帰って工場にでも戻るよ。――戻れないだろ。――さあな。――おれの仕事についてこいよ。来週の金曜日に満期なんだ。――どんな仕事だ?――それはいえない。でもあんたのことが心配なんだよ。
 ある晩、どぎつい仕事を終え、公園にいった。やつがおれを待ってた。――とりあえず、組長に話しをつけてきた。月20万はかたいぜといった。――それでどうすればいい?――まずは組長のまえで手品をしてもらう。――仕事の内容は?
 「電話をかけるだけでいい。多重債務者にだ。それでおれたちが肩代わりして利子を儲ける。あんたなら1ヶ月はなにもしなくてもいい」――いい出会いに恵まれてる。うれしくおもった。やつの満期で飯場からずらかることにして室へもどった。盆休みになった。8月12日、金曜日。やつは満期。おれは酒壜を鞄にしまいこみ、やつのあとを追った。やつは遅いといった。手元には盆休みの5千円あった。まずはバスに乗って駅をめざした。やつがさえずる。聴くに耐えなかった。
 「おれはまえにいちどバスの運転手をしめてやったよ。おれが1万しか持ってねえっていったらよ、そいつ、そんなじゃ支払いにならねえと抜かしやがった。おれはバスからやろうをひっぱりだして、停留所の看板でぼこってやったよ!――あれは傑作だったなあ。土下座もおまけだ」。
 そんなことがやつにできようとはおもえなかった。おれはやつから見えないように酒を口にした。――おれたちは環状線に乗りこんだ。雨脚はつよくなり、やつは落ちつかず、いらだちをもろだしにしてた。そして目的とはちがう飯田橋駅で降りてしまった。おれたちはパチンコ屋にいくことになった。雨が降りだした。帰ろうかとおもった。どこへ?――やつがいうに金を作るという。おれが店内をうろちょろしてるとやつがおれの肩を小突いた。──おい、来る気ないだろ!――いや、あるよ。――手品の道具がいる。ビニール紐とばかちょんカメラを買って来い!──やつが千円札を1まいきり渡した。追い立てられるようにおもてへでた。商店街を見つけ、紐とカメラを用意した。やつが喰わせものとはわかってたが、20万のきらめきは、なかなか消えてくれなかった。パチンコ屋のまえで2時間待っていたらやつがあらわれた。黙ったままだ。換金の列にはくわわり、なにがしかを受けとった。いずれおれはこのことを書くんだ。やつをしっかり見る必要がある。でも、おれのほうも焦ってた。ようやくにしてやつの地元にきた。上野だ。
   ここじゃあ、おれもそれなりの顔だ。敬語で話せよな。
  ああ。――ああ、じゃねえよ。わかりましただ。
  わかりましたよ。

                                                      *

 観月荘の4階に室をとった。古い宿だ。寝台がふたつ、姿鏡が1枚、冷房、テレビ、便所、廊下にはビールの自販機。室に入ろうとしたとき、やつは「バイバイ」と手をふった。どうすんの?――やるよ。――なんでおまえのホテル代まで払わなきゃならねえんだよ!――どうすんだよ。――やり場を喪い、シャワーを浴びた。――その態度じゃ、うちの組長も切れんべ。金が欲しいだけなんだろう?――うちの会社、入ったからには、それなりの働きをしてもらわねえといけねえんだよ。おめえから金貰いたいぐれえなんだよ。おまえ、甜めてるるだろう、こっちはやくざなんだよ。おまえなんてすぐに殺せるんだからな。すぐ、ふてくされるしよ。――耐えかねて、やめるとおれはいった。――それじゃあ、おれの面子はどうなんの?――ホテル代は払います。――兄貴や彫り師は呼んであんの。払わなかったらどうすんだよ。怒られるのはおれ、なんだぜ。室の頭金も払ってんの。払えよ。身分証なんかなくたって探せるんだぜ、てめえの家族に取り立てるぞ!――やつは激昂して捲し立てた。うんざりだ、おれはおまえを信じてたんだ。しばらくしてやつも大人しくなった。たがいにビールを流し込む。やつが話した。組長が今夜これないという。かわりにここで手品をやって写真にとるといった。
   おまえまず、裸になるんだ。
   裸で手品をやるんだよ。
 戸惑っておれが脱ぐ。やつがおれをビニール紐でしばりつける。しかしそれだけだった。あとは要領を得ず、紐はけっきょく切られてしまった。おれの全裸をやつが写真に収める。いったい、こいつはなんなんだ? 問いかけのしようもない。おまえ、そこでせんずりしろ!――おい、手品はどうしたんだ?――裏切らせないためだ。
 テレビが光りを放つ。ポルノだ。おれはいつまでも勃たなかった。いやものを浮かべて勃たないようにした。父の顔や、クラスでいちばんの醜女をおもいうかべた。やつは痺れを切らし、おれのうしろに立った。やつはズボンを降ろして態勢をつくった。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
  それだけはやめてくれ!――あわやぶちこまれそうになった。やつはしぶしぶ、じぶんの寝台へもどった。おれを睨む。坊主頭で、やせぎすで、しかし態度と声だけはでかい。いっぱしのちんぴらやくざにふさわしい声色じゃないか。おれは怒声を浴びてるしかなかった。けつを奪われかけて寝台のうえで正座した。
 まぢめにやれよ!――すみません。――まぢめに働く気もないんだろう!――楽して金が欲しいっておもってるだろ?――もう仕事の話しはなしだ!――聞きながらおれはじぶんがなぜこんなことになったのかをおもいめぐらした。たしかにおれは楽がしたかった。大金を得たかった。まぢめでもない。でも、おれはじぶんの居場所が欲しかった。
   だからっておまえ、逃げるんじゃねえぞ、おれには調べがつく!
   逃げればおまえの家族だってただじゃおかねえからな。
   おれが紹介するから、おまえそこで働け。
   それとも金持ちババアのヒモにしてやろうか?――金はいいです。とにかく帰してください。
   このホテル代だっておれが払ってるんだぜ、そうはいくかよ。
 やつはおれの鞄からノートを引き抜き、なにやら店やひとのなまえを書きだした。ひどい悪筆かとおもえば、きちがいみたいにきれいな楷書だった。地階の電話で、飲食店だかの番号を調べた。104に何度もダイアルし、そいつを書きとめた。見つからない店のほうが多かった。わずかな答えをたずさえてもどった。
   おれの先輩がやってる店がある。おまえ、そこいけよ。ボーイの仕事だ。
   一生懸命働いて母親に仕送りでもしてやれ。
   そうしたら前に仲がわるいっていってた親父ともよくなるだろうしな。
   休むときはちゃんと連絡してこういうんだ、明日はがんばりますのでお願いしますってな。
   そうすりゃ認めてくれる。――さっきまでけつの穴にぶちこもうとした相手にいう科白か?――おまえには夢とかないのかよ?――詩人だ。――なんだそれ、小説とどうちがうんだ?――なにもおもいつかなかった。――まあ、おれも駅前で酔って買ったことがあるけどな。いいちゃいいし、よくわからん。──ただただ時間が過ぎるのを待つ。──飯場できらいなやつはいなかったか?――いないよ。おれはうそをついた。これ以上ややこしくなるのはご免だった。やつの説教を再発させたくはない。おれにきらいなやつがいた。茶色いのパーマの男。長い髪で、ジョン・レノンそっくりのやつが。くそ狭い銀行支店、たしか三菱だったとおもう。そこではじめて一緒になった。気性の荒いやつで、おれを追い払いたくてたまらないのだ。どけだの、うせろはあたりまえ。でも、ちがう現場でのことだ。無言でやつのいうことに従ってたら、ひどく困ったつらで「頼むから返事してくださいよお」――か弱い声をだした。――明日は早いんだ、もう寝ろ。
 やつは灯りを消した。肛門が痛みだした。やつは眠ってる。おれはまたしても急性胃腸炎にやられた。便所で嘔吐し、いきんでもいきんでも腹はおさまらず、夜通し便所にいた。肛門がただれるように温く、それはきっと紫をしていたにちがいない。逃げだすこともならず、紫色、それだけがあった。朝、ホテルをでる。具合はまだわるい。やつもまだ不機嫌そうだ。――これ、おまえが処分しろ。おれの裸を撮ったカメラだった。やつはやくざでもちんぴらでもなく、ただのおかまやろうかも知れない。その鞄、ロッカーに入れろよ。まるで家出してきましたっていってるようにみえる。
 「でも」――おれはためらった。――でも、じゃねえよ。
 「ロッカーの金あるか?」――金はない。

                                                      *

 やつは朝餉を喰いに蕎麦屋に入った。おれは自由になったというわけだ。でもやつの裏切りは淋しかった。とりあえず駅の商店や古本屋を見てまわった。飯島耕一の『アメリカ』という救いようもなく、つまらない詩集があった。そのあと、もしものときをおもって交番へいった。とんでもないでぶの警官がいた。不機嫌な顔して立ってた。女房や子供に豚呼ばわりされたせいかも知れない。おれは話した。けつの穴と手淫のほかを。
   それであなた、裸の写真を撮られたんだね?
   なんの抵抗もしなかったの?
  仕事が手に入るならと。
   カメラは?
  返してもらいました。
   ちょっと署のほうで、もういちど話してくれるかな?
 ふたりしてちかくの警察署へいった。若い刑事は軽装で、半袖のボタンシャツにジーパンだった。おれは取り調べのせまい室に入れられた。かれは20代らしかった。おれはもういちど説明した。飯場でのこと、やつの素性、仕事のことやなんか。犯された女のような気分だった。恥ずかしく、そしてけつの穴がむずむずする。警官は諭すようにいった。田舎に帰って仕事を探せ。でぶと一緒におもてへでた。
   高校はどこ?
  有馬高校です。
   名門じゃないか。
 定時制であることはいわなかった。おれは高架下のルンペンたちに会いにいった。かれらは眠ってた。おれに気づかないふりをしてた。母から金を無心しながら2日、3日を路上で過ごしたあと、夜行バスに乗った。窓をながめ、去っていく町をみる。そのまま夏は終わりかけてた。   

                                                      *

鴎の画

 狐火に降る雨寒夜男来ぬ


 飛びかたはなめらかならず鴎の画


 画のうちの木工ひとり休息なし


 古本と少女はひとつ過ぐ冬の


 初冬の男たずさう表紙絵は時化て


 灯火のいろいろのみか画面の都市


 凪失わば飛ぶそらあらず一羽の青年


 飛ぶそらもあらず精神病棟の冬


 おもかげを充たして枯るる木木並び


 死を書けば枯れ葉とともに午后訪れる


 飛ぶもののかげの青きに手は触れ光り


 答えもたずが枯れ葉の問いを胸に抱くかな