Other Voices

 春を皆兎唇のごとき少女らは
 
 密会のまぼろしばかり葉の桜
 
 花ぐもり羞ぢを生きてか夜露落つ
 
 蝶番はずれて訪ふ夜の雨
 
 ゆふれいの足美しき裏階段
 
 鋪道満つしずくやひとの群れみせて
 
 裏口に歌声低くdoorsは
 
 ソーダーの壜よりあはれ群れなぞの
 
 鉄路踏みをんなひとりの春は雨
 
 墓のごと背見せて歩く男かな
 
 テレビらの眠れる路上湿度高
 
 花冷へやあしうら白き日暮来て
 
 みどりごの悲しみやまず青電車  
 
 ねがへりのたびに眼ざめる機械かな
 
 サーカスの灯火とともにわれも消ゆ
 
 透きとほり朝露まれる乳房欲し
 
 猫の尾をふめば煙の夜来たり
 
 人影のにせものばかり高煙突
 
 かのひとの声のかりそめ日傘過ぎ

Other Voices


 春を皆兎唇のごとき少女らは
 
 密会のまぼろしばかり葉の桜
 
 花ぐもり羞ぢを生きてか夜露落つ
 
 蝶番はずれて訪ふ夜の雨
 
 ゆふれいの足美しき裏階段
 
 鋪道満つしずくやひとの群れみせて
 
 裏口に歌声低くdoorsは
 
 ソーダーの壜よりあはれ群れなぞの
 
 鉄路踏みをんなひとりの春は雨
 
 墓のごと背見せて歩く男かな
 
 テレビらの眠れる路上湿度高
 
 花冷へやあしうら白き日暮来て
 
 みどりごの悲しみやまず青電車  
 
 ねがへりのたびに眼ざめる機械かな
 
 サーカスの灯火とともにわれも消ゆ
 
 透きとほり朝露まれる乳房欲し
 
 猫の尾をふめば煙の夜来たり
 
 人影のにせものばかり高煙突
 
 かのひとの声のかりそめ日傘過ぎ

初秋のスケッチ

 初秋にて現るる死人ひとりのみ

 

 秋暮れる雲間にピアノ聴ける使者

 

 月蝕や喪われゆく未亡人

 

 秋霖の烈しき真昼水を呑む

 

 水にふくれる陽光もやがて秋

 

 火事遠き果肉のごとき匂いして

 

 さすらえるもののみこそ秋の月

 

 犀を飼うわが幻想よ竹の色

 

 瘋癲の死す秋ありぬ保護室

 

 縁日の世界も終わり万華鏡

 

 秋月や連れて歩いて迷うまま

 

 陽もやがてみじかくなりぬかげの意味

 

 鳥影や地上に映ゆる黄葉なり

 

 亡国の猫いっぴきよかげ長し

 

 砂充ちて閉ざさるるのみ海水浴場

 

 夜風冷え姉の死后まで眠る犬

 

 骨を透く秋雨ばかり検査にて

 

 少年期遠きおもかげ秋祭

 

 階をのぼり来たればもう九月

 

 訪れて消ゆる初恋芒原 

 

 河に群るる蜻蛉のなかに日暮れあり

ドン・コサックの諧謔曲

 忌中なりドン・コサックの子守唄


 欠伸して入海自死を試みぬ


 投宿の仄暗きなか横たわる


 遊技場の電飾残る輝きや


 電柱のかげまぼぼろしやまほろばか


 曇天の雲路の果てを呑み尽くす


 憐れみのなき隣人の電子ピアノ


 電気ギター炎上するに音烈し


 枳の花の匂いに惑う硝子の庭園


 ドノ・ヴァンの歌声淋し自閉症

ディック・フランシスを読んだことがない

ディック・フランシスを読んだことがない

                                                      *

 あわやぶちこまれそうになった。――どこに?――留置場ではない、救済所でもない、失業者相談窓口でもない。おれのけつの穴へ、銃口でもなければ、パイプでもバイブでもないもの。骨のない、やわらかくなったり、かたくなったりするものが、皮と肉と管によってできてて、おれやあんたの股のあいだにあるやつがだ。
 「おい、おまえ。そこでせんずりしろ!」――なんでだ、手品はどうした?――これも裏切らせないためだ。――おれは寝台へ、全裸でよこたわり、またぐらをしごきはじめる。やつはそれをじっと眺める。そして鞄からおもちゃのあひるをとりだす。「これがなんだがわかるか?」――おもちゃのあひるだ。――おもちゃのあひるです、だろうが!――すみません。――こいつが怒りだすまえにいき果てろ。わかったか?――やってみます。
 「おまえ、紫色の公衆電話の話、知ってっか?」――いいえ。――まあいい。おまえにいったってしょうがねえ。――ポルノがテレビから流れてる。さえない代物だ。おれは勃つんじゃない!――そう自身へいいつづけてた。――はやくしろよ、それともおれがしごいてやろうか?――しびれを切らしたか、小男はおれのを掴んだ。立ちあがっておれの背後にまわる。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
 それだけはやめてくれ!――おれは哀願し、なんとかその場を遁れた。いったいなんのためにおれはこんなところにいるんだろう。

                                                      *

 工場は米の投入役を求めてた。採用された。ミラーの『冷房装置の悪夢』を持ってった。ふたりの若い男が退職をひかえて嬉しそうだった。仕事は単純だった。いやなやつがひとりいるらしい。そいつはリフトを運転してた。リフトが運んだ米袋を開封し、脱穀機へながした。父が勝手におれの鞄をあけた。ミラーを見て激怒した。職場に本などもっていくな!──というのが新しい訓示だった。理由を聞いても答えない。従わないことでおれは、その謎を解こうとした。しばらく経って、やつは気に入らないことに怒ってるだけなんだと合点した。福知山の脱線事故のあとだった、「たつや」の女将から電話があった。おれが巻き込まれたのか、心配してくれてた。あの事故で亡くなったひとで知ってるのは、小学生のときに通った床屋の女将だけだ。
 仕事は粉塵による鼻炎がひどく、2週間でやめた。米の粉が吹きあがって来る。マスクをすればよかった。三田の駅前で電話をかけた。やめますといい、途中で切ってしまった。それでも金は入って来た。おれはもういちど東京へむかった。とりあえず路上に坐った。老いたルンペンがよってきた。
 よお、あんた、どっから来たんだ?――神戸からです。なにしてる。――いまはなにも。仕事を探してます。――おれはきょう金が入るんだよ。そのまえに飲みもの、奢ってくんねえか。あとで返すから。痩せたからだに半袖を着てて、金はなさそうだった。それでも、おれは老人を信じて飲みものを買った。見返りのためじゃない。かれは亢奮ぎみに「おまえに11万やるよ!」といった。11万は来なかったが、かれがよくしてくれた。もとはやくざで、移民2世、妻が死んでから路上に入ったといった。菓子パンやスピリタスをわけてくれた。2日たっておれはいった。
  なにか仕事はありませんか?
   ホストなんてどうだ?
   あんた、いい顔してるしなあ。
   あるいはシンナーでも売るかだな。
   しかし最近じゃあ警察がうるせえからなあ。
  飯場とかないですか?
  倉庫とか?
   そういうのならいっぱいあるよ。
 翌朝、地下道でかれは手配師にひきあわせた。話しはすぐに決まった。小さな路線をひきつぎして飯場、加藤組へ来た。そこは八王子の住宅地のなかにあってトタンで覆われてた。まずは食堂に招かれ、ひさしぶりに飯を喰う。つぎに湯に浴みだ。『東京流れ者』を口にしていると、湯加減はどうかと声がする。
  問題なしです。
 室は大部屋で数十人との共同だった。莨に黄ばんだ壁をながめてると、男らが帰ってきた。かるく挨拶をすます。あとはなんにもできることがない。10時の消灯までうごけずにいた。ノートを広げて発想を待つ。観察されてるようなさわりがあった。たしかにだ。ここのまえにも所沢の中村組という飯場にいた。室が決まるまでコンテナハウスのなかに入れられた。室は、3人組の相部屋で、室の入り口にはアニメキャラクタの等身大パネルがあった。初日、中目黒のアパートメントに行かされた。基礎工事の手元作業。コンクリートの打設のため、鉄骨をブラシで洗った。地上へは仮設階段がある。昇り降りするたびに揺れ、怖かった。昼食、おれは弁当を忘れてしまってた。それを察したのか、老人が菓子パンをくれた。夜、仕事から帰って来ると、室の長らしいのが凄んだ。――おまえ、挨拶もできねえのかよ!――ぶっ飛ばされたいのか!――こんなところにはいられない。あたまのいかれたおたくやろうなんざごめんだった。おれはさっさとでた。
 村下渉に出会ったのは、翌々日だった。やつはワゴンの窓際でけだるそうにしてた。現場は大日本印刷・事務所ビル。黒い鉄骨をむきだしにした陰茎のようにみえる。からだがまるでうごかなかった。足場を組むのを手伝ったり、ガラだしをやってるあいま、倒れそうになる。不安定な仮設階段はめもくらむ揺れをくれた。
   そこのおまえ、足場を組め!――おまえ、おれより喰ってるんだろうが!――もっと動け!
 ひょろ長の男が罵声を浴みせるのを黙って聴いてた。こいつを叩きのめして、スコップの味見をさせてやりたい。休憩のとき、おれは氷をタオルに包み、頭にあててた。雨季をまえにして夏は来てる。地下の詰め所に降り、じぶんの飯場の卓を探す。そこにはあのちびっこがいた。――大丈夫か、あんた?――じぶんでもわかるほど顔が青くなってた。坐って相手をみた。160センチ、あるかないかのちびだった。でもこいつだって要領よくやってるんだろう。涼しい顔をしてる。どんなことでも抜かりなしといった様子だった。おれは自身を憐れみ、ただ腰を降ろした。――歳は?──今年で21だよ。――おれとおなじじゃないか!――やつは笑って莨をさしだした。いっぽんとって喫む。つまらねえ代物だ。酒を呑みたかった。やつは村下渉と名乗った。
 「おれはじつはやくざなんだよ」とやつはいった。14歳からかずかずの非行を重ねて来たとか、もとは金髪だったとか、年上の女と実家で暮らしてるとか、医者にハルシオンを要求して拒否されたとか、そんな与太を喋った。じぶんには別に仕事があって、そこは高給で楽ちんだ、おまえも来ないかといった。
  なんでこんなところにいるんだ?
 「しくじりをやらかしてよ、組長の命令で来たんだ。どうだい、こっちをでたらいい仕事がある。――のらないか?」──おれは警戒して遮った。いや、おれもでたら用事があるんだ。わるかったな。――おれは警戒してた。こんなやろうとは離れるべきだ。それでもだんだん。ふたりで話すようになった。晩酌のビールをやつとわけあい、やつが仕事についておれをフォローしてくれることもあった。しかし飯場にも労働にもあきあきしてた。とてもおれのからだに合わない。詰め所でぼやいた。
 もうやめるよ。――やめてどうする?――地元に帰って工場にでも戻るよ。――戻れないだろ。――さあな。――おれの仕事についてこいよ。来週の金曜日に満期なんだ。――どんな仕事だ?――それはいえない。でもあんたのことが心配なんだよ。
 ある晩、どぎつい仕事を終え、公園にいった。やつがおれを待ってた。――とりあえず、組長に話しをつけてきた。月20万はかたいぜといった。――それでどうすればいい?――まずは組長のまえで手品をしてもらう。――仕事の内容は?
 「電話をかけるだけでいい。多重債務者にだ。それでおれたちが肩代わりして利子を儲ける。あんたなら1ヶ月はなにもしなくてもいい」――いい出会いに恵まれてる。うれしくおもった。やつの満期で飯場からずらかることにして室へもどった。盆休みになった。8月12日、金曜日。やつは満期。おれは酒壜を鞄にしまいこみ、やつのあとを追った。やつは遅いといった。手元には盆休みの5千円あった。まずはバスに乗って駅をめざした。やつがさえずる。聴くに耐えなかった。
 「おれはまえにいちどバスの運転手をしめてやったよ。おれが1万しか持ってねえっていったらよ、そいつ、そんなじゃ支払いにならねえと抜かしやがった。おれはバスからやろうをひっぱりだして、停留所の看板でぼこってやったよ!――あれは傑作だったなあ。土下座もおまけだ」。
 そんなことがやつにできようとはおもえなかった。おれはやつから見えないように酒を口にした。――おれたちは環状線に乗りこんだ。雨脚はつよくなり、やつは落ちつかず、いらだちをもろだしにしてた。そして目的とはちがう飯田橋駅で降りてしまった。おれたちはパチンコ屋にいくことになった。雨が降りだした。帰ろうかとおもった。どこへ?――やつがいうに金を作るという。おれが店内をうろちょろしてるとやつがおれの肩を小突いた。──おい、来る気ないだろ!――いや、あるよ。――手品の道具がいる。ビニール紐とばかちょんカメラを買って来い!──やつが千円札を1まいきり渡した。追い立てられるようにおもてへでた。商店街を見つけ、紐とカメラを用意した。やつが喰わせものとはわかってたが、20万のきらめきは、なかなか消えてくれなかった。パチンコ屋のまえで2時間待っていたらやつがあらわれた。黙ったままだ。換金の列にはくわわり、なにがしかを受けとった。いずれおれはこのことを書くんだ。やつをしっかり見る必要がある。でも、おれのほうも焦ってた。ようやくにしてやつの地元にきた。上野だ。
   ここじゃあ、おれもそれなりの顔だ。敬語で話せよな。
  ああ。――ああ、じゃねえよ。わかりましただ。
  わかりましたよ。

                                                      *

 観月荘の4階に室をとった。古い宿だ。寝台がふたつ、姿鏡が1枚、冷房、テレビ、便所、廊下にはビールの自販機。室に入ろうとしたとき、やつは「バイバイ」と手をふった。どうすんの?――やるよ。――なんでおまえのホテル代まで払わなきゃならねえんだよ!――どうすんだよ。――やり場を喪い、シャワーを浴びた。――その態度じゃ、うちの組長も切れんべ。金が欲しいだけなんだろう?――うちの会社、入ったからには、それなりの働きをしてもらわねえといけねえんだよ。おめえから金貰いたいぐれえなんだよ。おまえ、甜めてるるだろう、こっちはやくざなんだよ。おまえなんてすぐに殺せるんだからな。すぐ、ふてくされるしよ。――耐えかねて、やめるとおれはいった。――それじゃあ、おれの面子はどうなんの?――ホテル代は払います。――兄貴や彫り師は呼んであんの。払わなかったらどうすんだよ。怒られるのはおれ、なんだぜ。室の頭金も払ってんの。払えよ。身分証なんかなくたって探せるんだぜ、てめえの家族に取り立てるぞ!――やつは激昂して捲し立てた。うんざりだ、おれはおまえを信じてたんだ。しばらくしてやつも大人しくなった。たがいにビールを流し込む。やつが話した。組長が今夜これないという。かわりにここで手品をやって写真にとるといった。
   おまえまず、裸になるんだ。
   裸で手品をやるんだよ。
 戸惑っておれが脱ぐ。やつがおれをビニール紐でしばりつける。しかしそれだけだった。あとは要領を得ず、紐はけっきょく切られてしまった。おれの全裸をやつが写真に収める。いったい、こいつはなんなんだ? 問いかけのしようもない。おまえ、そこでせんずりしろ!――おい、手品はどうしたんだ?――裏切らせないためだ。
 テレビが光りを放つ。ポルノだ。おれはいつまでも勃たなかった。いやものを浮かべて勃たないようにした。父の顔や、クラスでいちばんの醜女をおもいうかべた。やつは痺れを切らし、おれのうしろに立った。やつはズボンを降ろして態勢をつくった。
   おれが入れてやる。
   痛くはない。
  それだけはやめてくれ!――あわやぶちこまれそうになった。やつはしぶしぶ、じぶんの寝台へもどった。おれを睨む。坊主頭で、やせぎすで、しかし態度と声だけはでかい。いっぱしのちんぴらやくざにふさわしい声色じゃないか。おれは怒声を浴びてるしかなかった。けつを奪われかけて寝台のうえで正座した。
 まぢめにやれよ!――すみません。――まぢめに働く気もないんだろう!――楽して金が欲しいっておもってるだろ?――もう仕事の話しはなしだ!――聞きながらおれはじぶんがなぜこんなことになったのかをおもいめぐらした。たしかにおれは楽がしたかった。大金を得たかった。まぢめでもない。でも、おれはじぶんの居場所が欲しかった。
   だからっておまえ、逃げるんじゃねえぞ、おれには調べがつく!
   逃げればおまえの家族だってただじゃおかねえからな。
   おれが紹介するから、おまえそこで働け。
   それとも金持ちババアのヒモにしてやろうか?――金はいいです。とにかく帰してください。
   このホテル代だっておれが払ってるんだぜ、そうはいくかよ。
 やつはおれの鞄からノートを引き抜き、なにやら店やひとのなまえを書きだした。ひどい悪筆かとおもえば、きちがいみたいにきれいな楷書だった。地階の電話で、飲食店だかの番号を調べた。104に何度もダイアルし、そいつを書きとめた。見つからない店のほうが多かった。わずかな答えをたずさえてもどった。
   おれの先輩がやってる店がある。おまえ、そこいけよ。ボーイの仕事だ。
   一生懸命働いて母親に仕送りでもしてやれ。
   そうしたら前に仲がわるいっていってた親父ともよくなるだろうしな。
   休むときはちゃんと連絡してこういうんだ、明日はがんばりますのでお願いしますってな。
   そうすりゃ認めてくれる。――さっきまでけつの穴にぶちこもうとした相手にいう科白か?――おまえには夢とかないのかよ?――詩人だ。――なんだそれ、小説とどうちがうんだ?――なにもおもいつかなかった。――まあ、おれも駅前で酔って買ったことがあるけどな。いいちゃいいし、よくわからん。──ただただ時間が過ぎるのを待つ。──飯場できらいなやつはいなかったか?――いないよ。おれはうそをついた。これ以上ややこしくなるのはご免だった。やつの説教を再発させたくはない。おれにきらいなやつがいた。茶色いのパーマの男。長い髪で、ジョン・レノンそっくりのやつが。くそ狭い銀行支店、たしか三菱だったとおもう。そこではじめて一緒になった。気性の荒いやつで、おれを追い払いたくてたまらないのだ。どけだの、うせろはあたりまえ。でも、ちがう現場でのことだ。無言でやつのいうことに従ってたら、ひどく困ったつらで「頼むから返事してくださいよお」――か弱い声をだした。――明日は早いんだ、もう寝ろ。
 やつは灯りを消した。肛門が痛みだした。やつは眠ってる。おれはまたしても急性胃腸炎にやられた。便所で嘔吐し、いきんでもいきんでも腹はおさまらず、夜通し便所にいた。肛門がただれるように温く、それはきっと紫をしていたにちがいない。逃げだすこともならず、紫色、それだけがあった。朝、ホテルをでる。具合はまだわるい。やつもまだ不機嫌そうだ。――これ、おまえが処分しろ。おれの裸を撮ったカメラだった。やつはやくざでもちんぴらでもなく、ただのおかまやろうかも知れない。その鞄、ロッカーに入れろよ。まるで家出してきましたっていってるようにみえる。
 「でも」――おれはためらった。――でも、じゃねえよ。
 「ロッカーの金あるか?」――金はない。

                                                      *

 やつは朝餉を喰いに蕎麦屋に入った。おれは自由になったというわけだ。でもやつの裏切りは淋しかった。とりあえず駅の商店や古本屋を見てまわった。飯島耕一の『アメリカ』という救いようもなく、つまらない詩集があった。そのあと、もしものときをおもって交番へいった。とんでもないでぶの警官がいた。不機嫌な顔して立ってた。女房や子供に豚呼ばわりされたせいかも知れない。おれは話した。けつの穴と手淫のほかを。
   それであなた、裸の写真を撮られたんだね?
   なんの抵抗もしなかったの?
  仕事が手に入るならと。
   カメラは?
  返してもらいました。
   ちょっと署のほうで、もういちど話してくれるかな?
 ふたりしてちかくの警察署へいった。若い刑事は軽装で、半袖のボタンシャツにジーパンだった。おれは取り調べのせまい室に入れられた。かれは20代らしかった。おれはもういちど説明した。飯場でのこと、やつの素性、仕事のことやなんか。犯された女のような気分だった。恥ずかしく、そしてけつの穴がむずむずする。警官は諭すようにいった。田舎に帰って仕事を探せ。でぶと一緒におもてへでた。
   高校はどこ?
  有馬高校です。
   名門じゃないか。
 定時制であることはいわなかった。おれは高架下のルンペンたちに会いにいった。かれらは眠ってた。おれに気づかないふりをしてた。母から金を無心しながら2日、3日を路上で過ごしたあと、夜行バスに乗った。窓をながめ、去っていく町をみる。そのまま夏は終わりかけてた。   

                                                      *

鴎の画

 狐火に降る雨寒夜男来ぬ


 飛びかたはなめらかならず鴎の画


 画のうちの木工ひとり休息なし


 古本と少女はひとつ過ぐ冬の


 初冬の男たずさう表紙絵は時化て


 灯火のいろいろのみか画面の都市


 凪失わば飛ぶそらあらず一羽の青年


 飛ぶそらもあらず精神病棟の冬


 おもかげを充たして枯るる木木並び


 死を書けば枯れ葉とともに午后訪れる


 飛ぶもののかげの青きに手は触れ光り


 答えもたずが枯れ葉の問いを胸に抱くかな

れもんの若い木々

れもんの若い木々

                                                      *

 初秋だった。北部の田舎からでて、金が尽きてしまい、更生センターで寝てた。『ブルックリン最終出口』を読みながら。そこでは夕方の5時から朝の8時まで泊めてくれる。駅のすぐそばにあって、建物は小さいけど、心地よい清潔さがあった。労務者たちか、あるいはルンペンたちが、それぞれのスタイルを持って、畳ベッドに休んでる。まだ午后7時、消灯まで時間があまってる。ぼくが便所に立って、もどってくると、大柄な若い男が、ぼくのまえのベッドで力なく、うつろな眼差しで天井をみてた。ぼくは気にしないふりを決めて本をひらいた。
   きみは本を読むんだね? 
  ええ、そうですよ。
   ちょっと話を聴いてくれないか?
 身の上話だろうとおもった。まあ、それだってわるかない。いずれ小説のねたになるかも知れない。ぼくは坐ってかれに顔をむけた。かれは話しはじめ、それはこんなものだったとおもう。

                                                      *

 おれはこのあいだまで港で働いてたんだ。港湾労働ってやつで、荷降ろしや荷積み、品ものの仕分けもやってたんだ。もちろんフォークにも乗ってな。それがきのう馘になっちまった。きっかけは黒人の船員だった。やろうと知り合っておれはすぐに打ち解けた。ジャズの話しをしたんだ。ドルフィーとか、モンクとか、オルドロンなんかについて下手くそな英語で語りあったんだ。ちょうど休憩時間で一緒に飯を喰ってた。そんときだった、やつはおれに見せたいものがあるんだっていった。それでおれは仕事が終わったあとにやろうについてったんだよ。やろうは倉庫の裏手の、だれも来ないようなところからシートにかぶさったなにかを運んできた。
  なんだよ、それは?
   タイムマシンだ。
 もちろん、そんな与太を信じるほどに螺子はゆるんじゃいない。ただやろうはいったんだ、こいつを験してレポートを書けば、600万はかたいってな。
  あんたがやればいいじゃないか?
   ああ、でも残念がらおれは健康診断で落ちたんだ。
   だから、日本人のおまえに頼むんだよ。
 おれはやろうの眼を見た。やろうはシートをはぐってモノを露わにした。そこにあったのはアイス・クリーム売りの屋台車だ。――こいつはいかれてるか、ふるってる。あるいはふるってて、いかれてるにちがいない。
   金は山分けだ。
  わかったよ。
 やろうは解説書を渡すと、「あとは頼んだ」といって呑み屋街のほうへ消えてった。いったい、何者なんだ? おれは屋台車を調べた。後部にタラップとレバーがあった。そしてブレーキも。おれはタラップに両の足を乘せ、レバーを引いた。かくして屋台は走りだし、ひとびとの注目を浴びながら帰ったというわけ。つまり、そのころはまだ棲むところがあったんだってなわけだ。屋台のどこに次元転移送置があるのか探した。そいつは冷蔵庫のなかにあった。おまけに時限ダイヤルもある。ただしその発動には燃料がいる。おれは酒と売女をそろえて、次の日にでも買いにいくことにした。すさまじい夜だった。たぶん金が入ったら、もっとすさまじくなるだろう。かの女の通り名は《蠍》だった。おれは仕事をさぼって市場へと繰り出した。肉屋の店員がおれに近寄ってきやがる。
   いらっしゃいませ。
  燃料が欲しいんだ。
   うちは肉屋です。
   スタンドなら表通りにあります。
   3年まえに潰れましたが、バイトの女の子はけっこうかわいかったですよ。
  いや、そうじゃない。鶏肉が欲しいんだ。
   なんてひどいことを。
  あんた、売る気あんの?
   もちろんいい挽肉がありますよ。赤身で。
  あいにく挽肉じゃあだめなんだ。
   きょうは挽肉むきの1日だとおもうけどねぇ。
   曇りだし、雨も降りそうだ。
   わたしなら挽肉にしますよ。
  いや、だめだ。やめとく。おれは社会によって弄ばれる悲しい生き物なんだよ、たぶんこれからもずっと騙されてるって知りながら踊りつづけるんだ。わかるだろ?
   わかります。――じゃあ、なにがいいんです?
  レバーを100鞍牟(グラム)。
   なんと怖ろしいことを。
 それでもけっきょくおれは鶏のレバーを手に入れた。肉屋は不安そうな、落ち着かない素振りでしばらくこっちを見つめてた。どうだってかまうもんか。おれはタイムマシンで別の世界にいってやる。過古を変えつつ、世界線を移動しつつ、おれが最高の人生を送れるだろうところへたどり着いてやる。レポート? そんなものはケツ喰らえだ。
 帰ってきてマシンに肉を投入した。しばらくして焦げるみたいな臭いと、咀嚼音が聞えてきた。いったいなにが始まるってんだ? ダイヤルをセットしたがマシンはうごかなかった。おれは酔っていたし、庭のれもんの木にションベンして眠った。明くる日、ブンヤの知り合いに電話した。かれは最近競馬を憶え、おれに8千円の貸しがあった。
  もしもし、おれだ。
   金ならいまないし、おまえのくだらない短篇だって載せてやらないよ。
  金も短篇もどうだっていい。
  おれはタイムマシンを手にれたんだぜ。
   なら、とっとと幕末時代にでも消えてくれださいな、だ。
 まあ聞けよ、――おれは話した。ことのあらましから、報酬のことまで。少し喋り過ぎてしまったのかも知れない。かれは時間が空き次第、マシンを見に来るといった。
   やっぱりデロリアンなのか?
  いいや、アイス売りの屋台さ。
 またしてもずる休みをして室にいた。トム・ウェイツの『バッド・アズ・ミー』を大きな音で鳴らし、隣の親子喧嘩を聞かないようにしてた。26歳の息子と67歳の父親が、もうずっと諍いのなかにあった。世相もよろしくない。吸血鬼のような政治屋どもが、それぞれの縄張りについてうだうだとやってる。こんな世のなかにあっても投票にいくやつはいるし、それでなにかが変わるとおもいこんでる痴れ者で世界はいっぱいだ。他者を変えようとするのは不毛だ。おのれを変えたほうが手っ取り早い。――そんな浅ましい考察を繰り返してるうちにブンヤは、いつのまにやら、おれの室に入り込んで、おれの非加熱麦酒を呑んでた。楽ちんだ、挨拶の必要もねえ。
   犬のアインシュタインは元気?
  生憎と犬は飼ったことがないんだ。
   だれが先に乗るんだ?
  8千円のほうだ。
   わたしは冗談はきらいだ。
  気が合うな、
  おれも冗談はきらいなんだよ。
  それとも利子をあげて8万にしてやろうか?
 かれは観念したみたいで、おれの冷蔵庫を勝手にあけて、おれのカナディアン・クラブをおれのグラスに注いでくれた。そしておれの机のうえにおき、おれのほうへ差しだした。これで答えは決まった。おれたちは乾杯をして酒を呷ると、外階段を降りて駐輪場のはずれにある繁みへと歩いた。シートをかぶったマシンが隠してある。おれはそいつを引っ張って、かれの、やつのまえまで滑らせた。
   本気なのか?
  とりあえず説明書を読めよ、燃料は入れてある。
   原発でも襲ったのか?
  そんな必要はない。
  肉屋で売ってるんだ。――おかしな肉屋だったが。
 おれたちは説明を読み、操作方法とレポートの書式や提出期限について確かめあった。まずはやろうが実験台だ。おれは見物と決め込もう。
   まあ、3日だな。
 それくらいあれば充分だろ?
  ああ、そんなところだ。
 健闘を祈る。
 ブンヤは屋台を押して帰った。おれがどんなに勧めても、どうしてか乗らなかった。まあ、いい。おれはれもんの若い木々に小便をして、室にもどった。親子喧嘩はまだつづいてる。おれはふと親父のことをおもいだした。やつは廃材で拵えたおかしな家に棲んでた。おれのことを召使いのように扱ってた。いまではプノンペンで身ぐるみを剥がされ、乞食をやってると聞いた。10年もまえの又聞きだから、プノンペンではなく、セゴビアの刑務所にでもいるのか知れない。
 隣室の狂騒にぴったしの音楽はなんだろ? レコードラックを眺め、おれは股ぐらをさすった。そろそろ女の子を用意する時間だ。きょうは水曜日だから、本来なら《蝸牛》が来る。でも、そんな気分じゃなかった。あんな感傷(しみつたれ)主義者とはごめんだ。というわけでダイヤルをまわして《鋸鮫》に頼んだ。ちょいと攻撃的だが、知性のある女なんだ。それから3時間もあと、その女を後悔してるおれがいた。どこで機嫌をわるくしたのか、女はなにもかもに当たり散らし、持って来た映画を鑑賞しだした。それもホラー映画だ。おれはそいつがきらいだった。
  なあ、それはないだろ?
   きょうはそんな気分じゃないっていってるでしょ!
   カタツムリのなにが気に入らないのよ!
   カタツムリとやりなさいよ!
 したかなくおれは映画につきあった。そそるものはなにもなかった。それでもかの女とシャワーを浴みるころには、わるい状態からどうやら快復したみたいで、冷えたシェリーを何杯かやってから、かの女のなかに突っ込んだ。
   また今度!
  もちろん!
 電話が鳴った。ブンヤからだった。えらく昂奮してる。なにをいってるのか、はじめわからなかった。よくよく聞けば、時間旅行に成功したらしかった。でも、なにかがおかしかった。
   おい、こいつのおかげでいい記事が書ける! なにしろ、なんでもわかるんだ!――それから長ったらしい歴史の講釈が始まった。帝銀事件?――下山事件?――北関東少女連続誘拐殺人?――小学生の売春組織?――おれにはどうだってよかったが、ともかくマシンは無事だったらしい。帰って来れたんだ、おなじ世界線ってやつに。やがてやつの声が遠のいてった。通信がよくないんだろう。   
  レポートはまかせたぜ。――そういって電話を切った。
 そろそろ仕事にいかなくてはならない。おれは残業を含む10時間にむかった。帰ってくると、だれかがおれの室にいる。それはまちがいなく《蝸牛》だった。泣きながら、おれのベッドに坐り、背中をこっちにむけてる。ハートランド・ビールをあけて机にむかい、いうべき科白を小一時間、探した。
  おれが憎いんだろ?
 女は首をふった。こっちを見ないで。
  おれがわるかったよ。
 ビールを片手にベッドに近づいた。そして女の背中に唇を寄せ、慰めるように吐息を吹きかける。じぶんでも陳腐な場面だったが、女を怒らせるとか、敵にまわすとか、下手な刺激を与えるとかして生き延びた野郎は有史以来存在なんかしてない。おれはそれを心得てる。
   助けが欲しい。
 ようやく女がこっちを見た。乱れた髪のなかで青痣のある頬が見える。
  なにがあったんだ?
   弟が家で暴れてる。
   働きもせず、酒に酔って、父とわたしを撲ったの。
 《蝸牛》は大学院に通いながらからだを売ってるといつか聞いた。弟がいるのも知ってる。なんでもそいつは生まれつきの落ち零れで、文学だの藝術だの与太を飛ばしながら、金も稼げず、のたくらやってるそうだった。でもそんなことはおれに関わりがない。どうだっていい。ただこの状況をうまく使えばただで1発できるはずだ。
  今夜は泊まっていけよ。
   そうじゃない、そんなことで来たんじゃない。
  じゃあ、おれはどうすればいい?
   あなたに頼みががある。この痣じゃあ、しばらく客はとれないからわたしを囲って欲しいのよ。
   だってお金がないと学費も払えないし、
   わたしは将来、アイ・ビー・エムに入る人間なの!
 おれのなかでなにかが壊れた。黙って女の腕を掴み、そのまま戸口まで引きずった。
  でていけ!
  うすぎたねえ女のくせしやがって!
  アイ・ビー・エムなんざけつ喰らえってんだ!
 青ざめた顔で娼婦は駈けだし、やがて軽自動車で走り去った。おれは隠し金を確かめた。よし、大丈夫。非加熱ビールをもう、いっぽん開け、音楽をかけ、みずからを慰めた。またしても罠にかけられてしまった。あの女はきっと仕返しに来るだろう。おれは生きながら滅びるというわけだ。それでもタイムマシンの報酬がある。そいつを独り占めにしてこの土地からずらかってしまおう。3日後のレポートが愉しみだ。
 朝になって電話がかかって来た。まずは《蝸牛》からで、曰く「高学歴の女を抱けるだけでも感謝するべき」、「ぜったいに赦さない」ということだった。好きにするがいい。次いでブンヤからだった。
   こいつは凄いぞ、これで出世できる!
   馬で負けることもない!
   ありとあらゆる不正と謎を暴いてやる!
  それでレポートはどうなんだ? 進んでるんだろ?
   あんなものはどうだっていい、マシンは買い取ってやる!
  え?
   わたしは世界を救う、わたしはじぶんの人生を救いだすんだ! いままで味わってきた苦痛もなにもかも変えてやる!
 やつは正気でなかった。――わかった、わかったよ。とにかくマシンを返してくれないか?
   だめだ!
   こいつはおれのものだ!    
 おれはやつの職場に電話をかけた。いかれてるか、ふるってる、それもふるってていかれてる。やつはもう何日も出勤してなかった。未明、やつの家に忍び込み、マシンを取り戻した。その祝いにあたらしい女、《蟋蟀》を呼んだ。かの女と酒を買って帰る。――ねえ、これなに?
 駐輪場のマシンを見てかの女がいった。
   タイムマシンだ。――なにいってんの?――これはどうみたってアイス売の台車よ。
 いっこうに《蝸牛》は仕返しに来なかった。2発決めてから、おれはマシンを起動させた。肉の焦げる臭いが、またも鼻を突く。燃料はあたらしく入れた。とりあえず、こいつで過古にいって自身の存在でも消してやろうか。もうそろそろ、この人生にはうんざりしてた。仕事があろうとも、金があろうとも、大した未来が待ってないのはとっくにわかってる。もはや自身に情熱も野心もないことはあきらかだった。ばかげたアルコールとばかげた女どものなかですべてが擦り切れ、かつての夢がおれを苦しめる。そんなことにはあきあきだった。おれは時間をセットしてスウィッチを押した。そして30分待った。なにも起らない。さらに1時間待った。なにも起らない。あきらめてタラップを降りた。
 翌日、おれはアイスを仕入れると、ある夜、台車を走らせた。町を見下ろす丘。夜景を眺める山出しのアベックたちに売りさばいた。なかなかいいアガリだ。みんながおれを写真に撮った。手をふっておれは丘をくだった。
 レポートはじぶんで書きあげた。――《コノ機械ハ出来損ナイデアル》。タイムマシンだって?――聞いて呆れるぜ。おれはあの黒人を探して港をほっつき歩いた。やつはいなかった。いったいどうなってるんだろう? おれはれもんの木々にションベンをかけながら考えた。
   やめないさい!
 ふりかえると女家主が立ってた。守銭奴の老婆に見つかってしまった。
  水をやってたんですよ。
   ふざけないでください。あなたのことは近所で噂になってます。
   いろんな女性を連れ込んだり、おかしな屋台を運転したり、とても迷惑してます。
  もうしませんよ。
   いいえ、いまからでてってください。警察を呼びます。
  わかりましたよ。
 あのくそ屋台はどうしよう。おれは荷物をまとめようと室にもどる。だれかがおれの室にいる。それはまちがいなく《蝸牛》だ。女はひとりじゃなかった。《鋸鮫》や《蠍》はおろか《麦畑》までいる!
  いったいどうなってるんだ?
   聞いたわ、あんたが《蝸牛》をむりやり犯したって。
 《鋸鮫》がいった。どうやら罠に嵌ったらしい。
  だったらどうなんだ?
   開き直るつもりね。
   あんたがどれだけわたしたちを傷つけてきたか、おもい知ればいい。
 かの女たちがいっせいに手斧をふった。おれのものを毀し始めた。机やレコードラックやプレイヤーがはじけ飛ぶ。おれは黙ってみてた。こうなっちゃ、どうしようもない。ただこっそりアイスの売上げをポケットにねじ入れた。
    なにかいったらどうなの!
 《蠍》がいった。
  べつになにもないよ。
  好きなようにやりなよ。
 おれは椅子に坐って莨を吹かした。もうなにもかも、どうだっていい。生活にも人生にも飽き飽きだ。ただ飯を喰ったり、通りを歩くためにしなければならないこと、手に入れなければいけないものが多すぎる。ここから去っていけるなら、この世からだって去っていけるにちがいない。おれは寝台で仰向けになって天井をみた。女たちはやがて静かになり、ぢっとおれを見る。――もう終わりか?
   なによ。
   あんた、いつもとちがうじゃない?
  どこもちがわないよ。
   なんか、落ち込んでる。
  そうじゃない。
   具合がわるいの?
  そうじゃない。
   馘首になったの?
  そうじゃない。
   じゃあ、なに?
  おれはもう疲れたよ。それにおれはきょうここをでなきゃならないんだ。しかも文無しでだ。そのとき、ブンヤから電話がかかってきた。マシンを返せと、わめきたててた。おれの職場にも電話をしたらしい。しばらくしてほんとうに馘首になったのがわかった。女たちが見守るなか、おれはマシンで港をめざした。嗤われ、うしろ指を差され、のろのろと埋立地へ。タンカーが見えてきた。巨きな貨物トラックや、荷降ろし場が見えてきた。おれはもう疲れ切って声もでない。そのとき、あの黒人に出会した。おれはやつにレポートとマシンを渡した。
 「どうだった?──時間旅行は?」――生憎、こいつは使いものにならなかったよ。――そいつは残念だ。――金はどうなる?――わるいな、きょうは渡せない。――おれはアパートに帰った。もうだれもいなかった。大家が警察を呼び、かの女たちは連れていかれたんだ。――「とりあえず歌おう、──賛美歌42番!」――これは神の怒りによって滅ぼされる人類を唱った陽気な歌であるといい、男は厚生センターで大声を張りあげた。

                                                      *
   
 かれは狂ってたのかも知れない。男は職員たちに連れてだされ、やがて警察を呼ばれた。ぼくは毛布に包まって眠った。そして朝の港まででかけてった。第4突堤の食堂で定食を喰った。するとひとりの黒人が近づいてきた。真っ白いハンチング帽をかぶって笑いかける。
   ヤア、見ナイ顔ダナ?
 おたがい片言で語りあった。文学のはなしだ。リロイ・ジョーンズ、リチャード・ライト、ラングストン・ヒューズや『ぼくのために泣け』や、なんかについて。――「ちょっと見てもらいたいものがあるんだ」――船員はいった。かれについていくと、シートに包まれたなにかが倉庫の裏手にある。
 「なんだい、これは?」――タイムマシンだよ。――かれがシートをはぐった。タイムマシンだって?――でもそれはどうみたって新聞配達のカブじゃないか。──こいつをちょいと試してほしいんだ。
 「ギャラは弾むよ」――ぼくはさっそくエンジンをかけてみる。肉の焦げるような臭いが鼻を突っつく。黒人はにやにやしながら、じっとぼくを見てる――いったいなにが始まるんだ?
  

                                                      *