天使の渾名

神に似し虹鱒捌くはらわたに出産以前のかがやきばかり

 生田川上流に秋を読みただ雨を聴く水に宿れる永久ということ

 校庭の白樫の木老いたれてもはやだれもぼくを呼ばない

 それでもまだ青年の日を悔やんでる、眼つむれば無人回転木馬

 北にむかって濁れる河よ身投げする放浪詩人というまぼろし

 妹への祝婚歌なしかたわれは避雷針がたったひとりか

 おれの死後野火に焚べたれあまたなる化身すべて宿るものみな

 名を持たぬコンクリートの塊が悲しむような岸壁の時化

 雪降れる養老院よなまえすら忘るる犬はくらがりに集う

 たらればとたりしのはざまきみのまえに立っているぼくのさまよい




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 屠られるけものの匂い週末のステーキハウスの光りまぶしく

 浴槽に水のない日よ遠ざかる母の亡霊しばらくおもう

 夜の寡婦かぜにまぎれてぬばたまのもっとも昏いところで咳く

 恋うるひと喪ばやいっぽんの地平の棟になまえ隠さん

 愛を知らず愛の映画を観しわれを皇帝と呼ぶ広場の主

 冬の菜をきみに贈りたし経験と呼べるものなきわが愛のため

 陸をゆく小さき機影まっしろな血と呼びたきわがアルコール

 失童のあとさきサヤという女ともにぼくは笑った羞ぢらいながら

 ひとをみな滅ぼす夢も愛ゆえにからたちの木に身をば委ねる

 急行の人生をみな生きながらブレーキパッドを知らないでいる





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 朽ちるままかつてのひとの憩いすら荒れ野のなかのいっぽんの梁

 裏階段展びてゆけゆけ入れ目なる緑の犬のまなこのなかに

 父死せる夢を見むときカナリアの死せし一羽を窓に飾れり

 やまびこの不在零狼かけぬけて登山家一同みな喉喰わるる   
 
 係船のなかにかのひとおもいつつ海はまっすぐ夜を流れる

 銀河にてさまよう塵を日の本と呼びみかどらの車スピードをあぐる

 裏庭に義兄の彫りし姪の名も甥のなまえも出生以前の淡いまぼろし

 ぼくの机上をゆく猫や三十一音の釘となり舟となれる夜よ夜よ

 まぼろしの犀を飼いつつ水桶にぼくがゆられるぼくのおもざしよ

 かくれんぼする狂人や愛も笑いもない夜の出来事





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 撃ち落とす冬の太陽恋うるものみなおれを拒んで   
  
 喰われたる虹鱒ひとつ漁火を両の眼に焼きつけたりぬ

 燐寸擦る無人の荒れ野照らされてぼくがひとりだという論証

 父の死后よ柩のなかに入れられて花という花も狂熱せん

 暮れる丘──雪のなかにて少女らの熾火に溶ける二月の夜よ

 八年の歳月ありぬ妹の消息などをぼくは知らない

 いっぽんの箒を走る陽光に暴かれつつあるぼくの出生 

 乱歩読む幼きぼくのきさらぎに仮面をかぶった男現れり

 無人なる回転木馬暮れるときひとのかたちでまわりつづける

 眠れない夜は毛布をかぶりゐて天文学をひとり著す

 夜行にて詩学走れり不眠症の男のあたまむすんでひらいて 



                                  *
 
 愛ゆえに黙せり冬の階しをふたりっきりの未成年たち

 映画とは天使の渾名飛びながら落ちゆくものに魅せられたる昼

 釘を打つひと見ばや早春の柩にぼくは入りたいのです

 政治とはいつわりの輪に過ぎぬといい古道のカーヴいくども転ぶ

 枯れる蘂ついに花粉はあらわれず中年の身を焼くような冬の陽よ

 牡蠣の身にすかりつくような愛をもってわれわれは檸檬の化身となりぬ

 虚構にて森番たりしわが手斧みずからをまたうつし世へ還さん

 書物という紙の柩やいっぽんの釘もて撃てり冬のサーカス

 屠られる牛こそ詩情喰うことと殺すこととは一体として   

 墓地過ぐるひととき雪の光りにて子供の墓碑の光りおりたし