物語と社会福祉制度〈1〉

物語と社会福祉制度〈1〉

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 あまり物語に無粋な突っ込みを入れたくはないのだが、あまりにも社会構造を無視した作品を見かけるので、考えを述べたいとおもう。エセ批評家風評定なのはごくごく承知している。まあ、大したものじゃないから話半分で読んで欲しい。

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○ドラマ『家なき子』の場合

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 主人公すずの母親洋子が心臓病で入院中というところから話は始まっている。さわりのほうで、手術費用に500万かかるというのだが、検索したところ、心臓病の手術でいちばん高額なのは、人工弁置換術(2弁)で500万〜550万円とのこと。ただしこの金額は全額自己負担だった場合である。国民健康保険である程度押さえることができる。父親は無職、木造アパートの家賃を半年も滞納している。国保料を払っているとはおもえない。たしかに居住権は日本では強いが、半年滞納ではどうなるかがわからない。わたしのようなクズ野郎は現在、生活保護なのだが、それでも漏斗胸の手術を香川医大病院でやってもらった。交通費以外はロハでいけたのだ。緊急でもなんでもないのに。わたしは生きるためなら多少の狡もする男なのでなんでもないのだが、競馬狂の父親がそこまで頭が回らないというのも謎だ。そもそも入院費をだれがどうまかなっているのかもよくわからない。伯父がいくらかはだしているのだろうが、全額だすほどの余裕があるともおもえない。
 その伯父は母親に保険金をかけていたということなのだが、ことが露見したあとにたった一本電話を入れただけで終わるというのもわからない。保険金殺人と下着泥棒で連行されたにもかかわらず、母子にも本人にもなんの影響もなく終わるのだ。最初から福祉に頼ったほうがよかったとおもうが、それにつけても子供の安全を母親は考えていない。夫が荒んでいるのなら、やはり施設に預けるべきで、暴力の標的にしてはいけない。後半で登場するおでん屋台の少年も「施設に入ればいい」といわれて、憤っているが、本を書いているひとびとはよほど偏見があると見られる。


○映画『岬の兄妹』の場合

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 主人公・良夫は造船関係で働いていたのだが、片足に障碍がある。そしてリストラされた。しかしこの作品の世界には障碍年金も失業保険も存在しない。妹・真理子──おれの母親とおなじなまえ!──は重度の自閉症である。もちろん、かの女にしたってどうようで社会福祉は存在しない。その証左に主人公の友人は警察官だというのに、それらをレクチャーしない。そして妹を売春させていることを表沙汰にはしないのだ。過激な作劇をしたがる、先走りの脚本家が終始下手を打ってるという印象しかなかった。


○映画『JKエレジー』の場合

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 この作品の舞台は、さんざん生活保護をめぐって問題を起こしている群馬県桐生市である。少しまえにも水際対策酷さや、受給者の印鑑の預かりなんかの不法行為で話題になっている場所である。主人公の高校3年生・梅田ココアは、成績優秀、しかし家庭は保護を受給している。競艇狂の父と、元漫才師で無職の兄との3人暮らしだ。ココアは学校とバイトの合間に「クラッシュビデオ」に出演している。'90年代終わりから'00年代初頭にかけて、インディーズのフェチビデオが多く出回っていたという話をTwitterで読んだが、正直理解できなかった。"あんものでシコれるなんて"というのが所感だ。そして「クラッシュビデオ」の本場である、海外の話を見てみると、小動物を殺し調理するとか、少女の監禁拷問殺害までもある。劇中にあるような制服少女が素足で、ソーセージを踏み潰したりといった穏やかなものではまったくないようである。しかも顔にはモザイクがかかってあるし、いったい、どの層が買うのか、大変怪しい。
 ビデオ出演は、兄の元相方から無理やり頼みこまれて出演していた。それを捌くために地元の顔役に仲介してもらっていたらしい。主人公は大学進学を希望する。しかし生活保護では現在認められていない。大学は”贅沢品”なのである。高等教育の修学支援制度を遣えば進学できるらしいが、そこのところは検索結果でも見解がわかれていてわかりづらかった。助言求む。
 けっきょく母の遺産は父が喰い潰し、兄は妹のビデオのギャラを持ち逃げ、主人公のビデオ出演は学校にばれ、進学への道は絶たれる。生活保護も父の競艇通いがバレて、停止。それでもおかしいのは1回、ギャンブルがばれたところで受給停止にはならない。「やめろ」と警告がいく程度だ。それにバレた父がさっそく仕事を見つけるのだが、それは警備員だった。しかもたった1日で祭りの交通整理にたったひとりで立っているのだ。ふつう警備員になるには面接後、公安委員会への届け出が必要で、それから数人で研修をする、それを1ヶ月ほどやってようやく単独になるのだが、そこがオミットされていて失笑を洩らした。
 そもそも需要の怪しいクラッシュビデオが、学校にとどけられ、わざわざスロー再生して、モザイクがかかっていない場面を発見するという下りが非常に莫迦らしく、匙を投げたくなった。作劇の杜撰さ、投げっぱなしの結末に作品がその輪郭を不明瞭なままに作劇されてしまったという感が拭えないのである。

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