映画『PERFECT DAYS』──あるいは安全なる賭け

 ヴィム・ヴェンダース監督はあるインタビューのなかで、本作の主人公・平山を僧侶に喩えている。宗教世界の求道者としての人間と、世俗世界での労働者を混同した件の表現には違和感しかなかった。インタビューそのものは作品の理解を助けてくれるという意味でよかったとおもうし、主人公の公衆便所清掃人・平山がどういった過去を経験して現在に至るのかが明瞭になっており、読む意味は多いにある。しかし、監督が話せば話すほどに、映画とのへだたりを感じずにはおられない点ではよくなかったとも感じる。

 映画は終始一貫、ある種の安全圏に生きる男が描かれていて、時折起きる突発的な問題も吸収されるかたちで、解消されてしまう。同僚の欠員、姪の登場、妹の登場、酒場での人間関係など、どれもが安全を脅かすようで肩透かしを喰らわしてしまう。そしてなにもなかったかのように、主人公はまた便所掃除の仕事へでかける。クラシック・ロックなどのカセットテープ、フィルムカメラ文庫本というアイテムにはヴェンダースの物質への偏愛ぶりがうかがえたものの、そのどれもが浅堀りで、いまひとつ肝心な愛が伝わって来ない気がした。たとえば'84年作『パリ、テキサス』における電話や、テープレコーダー、トランシーバーのような物語の根幹にかかわる重要な小道具という使われ方をしないということだ。たしかに平山の極度な無口ぶりや、他者との齟齬といったところはトラヴィスらしく見えなくもなかったが、この作品のなにひとつとして平山を変えてしまうものは登場しないのである。いったい、作品を通してなにを観客に与えたかったのだろうと索漠たるおもいに駈られる。

 清掃人に僧侶を見るのはなにも勝手だが、実際に公衆便所を職場とする労働者はこの映画に於いて疎外されている。そこへ来て表にひっついてる笹川財団や、トーキョートイレット・プロジェクト、隈研吾らのデザイナーズ便所たち、ユニクロ柳井氏の子息など、金と欲に事欠かないもろもろが無批判に現れていて、とても居心地がわるかった。映画作家として今作は安全な賭けごとで、だれも損はしないことが最初から決まっているのだ。ラストの役所広司の顔面アップは正直顔芸にしか見えない。どうにもヴェンダース世界の日本人像は小津映画で止まっているように思える。演出や映像の質感に時代的なフィルターをかけて観ればふさわしいのかも知れない。古書店の店主が一方的に喋るくだりなど、現代日本を舞台とした作劇には合っていないような気がする。後半に登場する妹とと対話も、古き善き日本の人情映画をやろうとして失敗しているように見えてしまった。個人的にこの映画を通して曝かれたのは、わたしのヴェンダースへの過剰な期待であったことは否めない。しかも、それは数年前に観た『誰のせいでもない』で、すでに砕かれたものだった。かれの絵づくりや写真に於けるセンス、文章に於けるセンス、それらが好きだからこそ、作劇や描写に曖昧さや、雑味といったものが感じられ、舌触りがわるくおもえる。しかし、これはもしかしたら、もしかしたらかれの描く「アメリカ」にだって充分あり得る現象なのだ。ただ単にわたしがアメリカ人を知らないせいで、かの国のひとは『パリ、テキサス』や『ランド・オブ・プレンティに違和感を憶えているのかも知れない。こればかりはアメリカ人の生の批評を読まないかぎりわからない。

 しかし、おもうのは劇場にいって期待するのはたかが人生以上のもので、たかが人生以内のなにかではないのだ。冒険と詩学を失った風景を観ることで、実人生とはべつの経験することはできない。翼なしでは飛べないのである。
 『ベルリン・天使の詩』には翼があった。『パリ、テキサスには冒険があった。『まわり道』には詩があった。現実を超えたなにかがあった。『パーフェクト・デイズ』にはいったい、なにがあったんだろうかと、わたしは映画館をでてからしばらく陰鬱な風のなかで咳きながら、しばらく街のなかで孤立していた。